平成21,年(20Q9年)9月7日月曜日

何ものかの「遺臣」であること  文芸批評家 都留文科大学教授 新保祐司

山内昌之氏の連載を愛読
本紙の毎週木曜日に連載されている山内昌之氏の「幕末から学ぶいま現在」を愛読している。たしかに幕末維新期の歴史から日本と日本人について学べることは多い。東洋史学者の内藤湖南は、大正時代に「応仁の乱について」という文章の中で、「だいたい今日の
日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです」という有名な断定を下したが、その中でも私は幕末維新期の歴史が最も重要であると考えている。小林秀雄は、戦前に出た『維新史』を読んで、「僕等の先輩達の鮮血淋漓たる苦闘の跡を、つぶさに辿ることが、一体何が専門的読書であろうか。それは、殆ど僕等の義務のように思う」と書いた。まさに、幕末維新期の歴史を知ることは、日本人の「義務」であり、この「苦闘の跡」を知ることによって、日本人は、「日本人」、になる。日本に生まれたからといって、.あるいは日本で生活しているからといって、日本人なのではない。日本人は、日本の歴史を知るることによってのみ、「日本人」になるのである。

西郷隆盛の斉彬への忠誠
島崎藤村の大作『夜明け前』や大佛次郎の史伝『天皇の世紀』など、幕末維新期の歴史と人間を描いた傑作も、日本人の「義務」として読まれるべきであろう。山内氏は、以前、小松帯刀のことをとりあげた回で、NHK大河ドラマ「篤姫」で、小松帯刀(たてわき)に扮した俳優の瑛太のことを誉めておられたが、この番組を毎週楽しみに見ていた私にも、その演技は印象さわやかであった。

「篤姫」の中で、今でも一番よぐ覚えているシーンは、江戸攻めを前にした西郷隆盛が、勝海舟から、篤姫に苑てた今は亡き主君、島津斉彬(なりあきら)の手紙を見せられた場面である。そのとき、西郷は、斉彬の署名を見ただけで、畏れのあまりうち震えていたのである。このシーンを見て、あらためて西郷隆盛が島津斉彬の遺臣であったことを思い起こさせられた。

斉彬に抜擢された西郷は、名君斉彬に対して絶対的な忠義の心を保持していた人であつた。斉彬亡き後は、斉彬の遺臣であった。現実には島津久光の家臣であり、禄をもらい、生殺与奪の権を握られ、現に島流しとかの目にあっても、精神においては、亡き斉彬の遺臣なのである。今は亡き斉彬は、西郷を現実にどう左右することもできない。現実の利害など発生しない。しかし、そのような存在に対して、畏れを抱きつづけたということ、そこに西郷という人物の偉大さがある。

内村鑑三が『代表的日本人』でとりあげた5人は
、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人だが、冒頭に西郷を論じた理由も、西郷の遺臣的な姿勢、何か眼に見えぬ偉大なものに対する 感覚を持っていたところにある。遺臣といえば、栗本鋤雲(じようん)のことを思い出す。鋤雲は、徳川幕府の遺臣である。幕末には、'小栗上野介とともに幕府を支えようとしたが、パリの万国博覧会訪間のためフランスに滞在中に、幕府の瓦解を知った。鋤雲の才能を評価した新政府から出仕の誘いもあったが、幕臣としての忠義の故に、謝絶した。維新のとき、鋤雲は47歳であった。有名な漢詩の中で、鋤雲は自らを「白髪の遺臣」と称している。

真に保守的な生き方とは
西郷隆盛は、島津斉彬の遺臣であった。栗本鋤雲は「白髪の遺臣」であった。薩長側と幕府側の違いはあるが、いずれも今はないものへの忠義を固く守ることにおいては同じである。現実の科害の家臣となって、右往左往するのではなく、眼に見えない、超越的なものに忠義を誓って生きるのである。

翻って思うに、真に保守の人間とは、何ものかの遺臣ではないか。現実的勢力のあれこれの家臣であることではないであろう。「戦後民主主義」の不幸は、何ものかの遺臣でありたいと思うような価値ある何ものかを作り出すことができなかったことである。しかし、今日の日本で、何もの、かの遺臣であるという意識を持たなくては、誇り高く生きることはできない。

その遺臣であるという意識こそ、超越的なもの、歴史的なものに対する感覚と一体のものである。現在の大衆社会に迎合せずに生きている人というのは、多少なりともそういう感覚の持ち主であろう。そうでなければ、迎合せずに生きることなど、普通の人間にはできることではない。言論人や知識人にしても同様である。

「日本」の解体がますます進行していくに違いない、これからの、時代のただ中に生きつつも、それに抗して、「日本」を支えつづけるためには、
何ものか偉大なるもの、美しいものの遺臣として自分を規定しなけれぱならない。そして、それがまた、真に保守的な生き方に他ならないであろう。(しんぽゆうじ)2009.9.7