壱岐国(一支国)ルネッサンス
                                    
 入江孝一郎
                                     全国一の宮巡拝会世話人代表
                                     社団法人日本移動教室協会理事長


壱岐国一の宮天手長男神社のことから壱岐と連格をしているうち、多くの人々と手紙などで知り合いになった。顔を合わせていない人も、壱岐を通じて積年の友のように親しくなった。神様を通して不思議な力の働きを感じている。司馬 遼太郎の街道を行く2で「日本神道というこの特異なシャーマニズムにおけるその古代的原型が対馬と壱岐に存在し、対馬神道とか壱岐卜部(占部)氏という古代シャーマンの存在がいまなおその専門の世界でやかましくいわれていることを考え、考えた上で、われわれはちょっと想像を働かすだけでいい」とある、占部氏の後裔となる占部英幸氏と電話でやりとりをしているなか、壱岐が生んだ電力の鬼といわれる松永安左衛門翁を慕う雪州会東京の会の竹富鉄一氏と知り合いとなり.さまざまな広がりをみせている。

 それら連絡しているうちに、先ず壱岐国一の宮天手長男神社で、文永・弘安の役(元寇の役)の敵味方鎮魂祭から始めるぺきであると、気がつくというよりも思わせられた。そのことが壱岐国分寺にも伝わり、神様の鎮魂に仏様の供養ということに発展してきた。人智では図り知れない方向に進展し、神仏による壱岐国(一支国ルネッサンス(復興〕が見えない世界から発信されている。神道に「中今」に生きるといわれているが、人はただ精一杯に生きることである。12月日2日、一の宮巡拝会山陰ブロック世話人ダスティン・キッド氏が、島根大学教官であった酒井薫美教授(鳥取短期大学教授)と一緒に出雲国一の宮出雲大社在参拝し、アメリカ人で初めて全国一の宮106社を完拝し、かつ教え子に教わった酒井董美教授は、この日から一の宮巡拝を始めたという知らせがきた。

(1)壱岐国(一支国)ルネッサンス

 経済的と合理性の理由で全国的の市町村に広軌合併:を国は推進している。壱岐島も島全体を壱岐市にする含併がすすめられている。「魏志倭人伝」の一支国、日本とアジア大陸を結ぷ文化交流の中継地としての大きな役割を果たしてきた68州の中の壱岐国として存在してきた歴史と伝統が、壱岐市という名において復活するチャンスに当面している。明治の廃藩置県によって、旧国の分け方がいがめられ、それが大体に落着くのは明治17年(1884)頃である。それでも尾張国と三河国が愛知県となり、出雪国と石見国が島根県となったが、気風が違うので今も尾を引いている。国生み神話以来から開かれて68州になったのであるから、そこに歴史的・精神的土壌がつくられてきた。西洋の真似をした行政区画の廃藩置県には無理があった。いまの市町村の合併も旧国に基盤をおいて考え直すことも必要であると考えるが、68ヶ国のこと知る人も少なくなってしまった。全国一の宮巡拝は、その国々の存在に気付かせるチャンスである。壱岐は理想的なかたちで壱岐国(一支国)ルネッサンスができ、21世紀への魁を示すものといえる。

壱岐国 『古事記」の国生みの話に「次に伊伎国(壱岐)を生み、またの名は天比登都柱(アメノヒトツバシラ)という。次に津嶋(対馬)を生み、またの名は天乏狭手依比売(アメノサデヨノヒメ)という。」壱岐国は、壱伎・伊伎・雪などの文字があてられている。壱岐は対馬とともに島であったが、大陸・朝鮮半島への通路であったゆえをもって国として扱われ、のちに島は廃され名実ともに国となった。「魏志倭人伝」に、対馬から「南海を渡る千余里、一支国に至る」とある。その一支国の中心が大規模な多重環濠をもつ原ノ辻遺跡が残っている。

 3世紀末に晋の陳寿が編纂した中国の史言(三国志)のうち、魏に関ずる部分を魏志(富)と呼ぴ、その「東夷伝」の中にみえる倭人(日本人)の条を『魏志倭人伝」と通祢し、倭国の政治・外交・社会秩序・風俗・習慣・産物などが2000字にわたって記入されている日本に関する最古の中国側文献で、史料価値がきわめて高いといわれる。当時の日本には耶馬大国という国があって女王卑弥呼が治め、北九州を含む約30国を支配し、239年と243年の2回、魏に遺使を送っている。有名な三国志の諸葛孔明(181〜234)が活躍した時代である。

 壱岐国は下国・小国・遠国とされ、壱岐・石田郡の2郡がたてられ、石田郡に国府が置かれた。芦辺町国分に壱岐島国分寺跡があるので、国府もこの近くにあったと思われる。湯岳に興の地名があって興神社が、一の宮とも.印?神社ともよばれていることなどから.国府はこの付近とも考えられている。壱岐は考古学的な調査がなされているが、縄文土器は1片しか出土しておらず.弥生時代の遺跡は濃厚に分布し、その弥生土器は、中後期のものが多く、多種多様で筑前の中心地とあまりかわらめ文化をもっていた。古墳の数は多<「続風土記」には668基が記され、100m高度の山麓台地面上に、鬼ノ岩屋などの古墳群が分布している。ほとんどが横穴式円墳である。規模は大きく巨石のある羨道は、奥行20mをこすものがある。分布は国分寺から立石・布岐で、国分寺跡と接し、古墳群の中心は壱岐氏の居住地と隣接していた。壱岐島国分寺は、壱岐ノ直の氏寺を当てたもので、聖武天皇の国分寺令のときは,すでに存在していた。仁明天皇(833〜50)の時、新羅に備えて構防人と烽がおかれた。後一条天皇の寛仁3年(1019).刀伊が来寇し国守藤原理忠が防戦して殉じた。刀伊は大陸の沿海州地方に住んでいた女真族で、太宰権師藤原隆家らによって撃退された。鎌倉時代になると少弐氏が島を治め、13世紀後半の文永・弘安の役で元軍が攻めてきて蹂躙された。少弐氏の勢力が衰えると、実権は配下の波多氏に移り、室町時代には佐志・志佐・呼子・鴨打・塩津などの松浦党の諸氏が分治した。のぢ波多氏の勢力は一時回復されたが.弘治元年(1555)、家臣の日高守清が叛して:、一旦は壱岐全島を奪ったが、維持することができず、元亀2年(1571)、女を質として誓紙を添えて平戸城主松浦隆信に送った。隆信はその女を納れて、第2子信実にめあわせ、城代として波田氏の亀ノ丘城を修築し、壱岐においた。城代の下に郡代をおき、在浦の民政をおこなった。在は24カ村に分かれ、村には庄屋をおき、庄屋と百姓の間には百姓頭である朸頭があった。村々を東目・西呂・南目。北目に四分し、代官4人が分担した。海は海境を定めて、八ヶ浦に付属させ、各浦に浜便がおり、その上に浦役がいた。百姓は田畑によって生活をし、浦人は海によって生計をたてていた。明治4年(1871)7月平戸県になった。

明治新政府の貢租は、穀物から金編に代わり、商人が米価を勝手に上げて暴利を貪った。このことが知れ、これを機に一部小士族の者が百姓をそそのかし共同出荷が計画された。そして国中寄を催し各浦の商人に対する一揆となった。明治6年(1873)3月18日、浦の郷で犬狩と祢して狼藉した。当時は野犬が多く、撲殺が行なわれた。犬狩は何人の屋敷内に目由に出入りできた。19日には湯の本浦、20日には印通寺浦を荒らして、犬狩騒勤とよぶ壱岐の一揆が起きた。同11年(i877)長崎県に所属した.

壱岐島  壱岐は博多港から76km、長崎港から約150kmである。壱岐から九州本土への最短距離は、44kmの唐津港である。壱岐島は第三紀層を覆うて噴出した玄武岩台地の島である。西岸は溺れて湯の本・半城・宇土・梅津の各湾入をし、分水嶺は西岸に傾くので、河川は西に短く、東岸は比較的長流する河内川・谷江川がある。河内川は木田盆地・柳田地を形成し、さらに鶴亀触・玉塚付近では、第三紀の基盤岩まで刻んで、壱岐最大の低地面を形成している。河内盆地の低位湖岸段丘の末端のでは弥生時代の住居跡が発掘された。河内川によって南北に二分された台地面上では、南に壱岐の最高峰、212mの岳の辻がみられ、北部にはi150m足らず神岳(119m)・神通の辻(126m)津の上などが起伏する。東海岸はリアスの形状を示すが、平滑な砂浜海岸をまじえ、八幡は棚江原のトンボロによってつながれ、筒城浜にはみごとなニ列の砂丘が発達している。北海岸は第三紀の丘陵を断つ断層海岸となり、南海岸には海蝕崖が発達して湾入が妻力島の自然の防波堤を有して良港になっている。夏季のイワシの漁期には五島・生月・対馬方面より、冬季大羽イワシの漁期には石川県より、徳島の漁夫は両期にわたって出漁している。西海岸の湯の本は白山火山帯西端の温泉がある。湯の本湾には手長島・桂島・蛇島をはじめ多くの島々は、海蝕棚を有し「壱岐九十九島といわれゐ。半城湾(母が浦湾の間違い)には珊瑚礁があってアジアにおける珊瑚礁の北限といわれる。海岸線には左京鼻、猿岩をはじめとする奇岩群や白く美しい砂浜がある。

原ノ辻遺跡(国史跡)  昭和20年(1945)に東亜考古学会により原ノ辻遺跡は調査された。昭和40〜50年(1965〜75)1こ県教委によって発掘調査が行なわれた。芦辺町と石田町にまたがる丘陵を中心とした弥生時代の大規模集落である。「魏志倭人伝」」に、「南に一海を渡る干余里、名づけて澣海という。一大国に至る。官をまた卑狗といい,副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木・蘇林多く、三千ばかりの家あり。やや田地あり、田を耕せどもなお食するに足らず、また南北に市籟す。」とある。環濠の規模は、東西約350m、南北約750mの平面が楕円形状の範囲を内濠・中濠・外濠がめぐり、外濠で囲む面積は約24万平方mである。遺跡の西側に船着場跡があって、堤防の間隔は上部で11m、高さ2mほどある。このような大掛かりな堤防状のものは弥生時代の遺構として全国に類例がないといわれ、ここにココヤシ製笛が数10点出土している。

男岳神社の石猿群   標高156mの男岳山に猿田彦命を祭神とする男岳神社がある。ここの神様は、枯枝一本取っても怒りにふれる。怒りも激しいだけご利益もあるので、全島から参拝者が多い。神様に籏をかけ、成就すると、石猿を奉納する風習がある。家運繁栄を祈って、230余体の石猿群が奉納されている。境内に展望台があって、ここからの眺望はすばらしい。

壱岐国分寺跡(県史跡〕   天平13年(741)、聖武天皇の発願で全国に建立された官寺の一つで、壱岐氏の氏寺を国分寺にしたといわれる。付近一帯から古瓦が出土している。東側に江戸時代再興された臨済宗の国分寺がある。

鬼の窟古壇(県史跡)   壱岐全島では約200基の古墳が確認されているが、鬼の窟古墳の一帯は、横穴式石室後期古墳がある。鬼の窟古墳は、6世紀末から7世紀初頭の築造と推定されている。巨石の4室からなる横穴式石室のある直径約50mの円墳である。玄室は約3m四方、羨道を含め奥行きは16mある。

壱岐風土記の丘   掛木古墳・百合畑古墳群・笹塚古墳と生池城跡、さらに江戸時代中期の様式を中心に、壱岐の百姓・武家の建物を移築復元している。壱岐で出土した考古資料や生活用具・農耕具先人の生活文化・習慣などを紹介展示している掛木古墳は、刳抜式罰家形石棺で蓋が屋根の形をしている。古墳時代中期からはじまり、後期に入って流行した古墳である。

(2)壱岐島の延喜式内社

 壱岐島は「延喜式」内社は、24座(大7座、小17座),その内名神大社が4座、対馬島は、29座(大6座、小23座)、その内名神大社が6座もある。式内社の祭神は古代の氏族の祖先神を思わせるものが多くそれだけ氏族の数がいたことを思わせるものが多く、それだけ氏族の数がいたことを思わせる。また、壱岐・対馬に式内社が多いのは防衛のためでもある。唐・新羅と戦った白村江(はくすきのえ)(663年)の敗戦以来、対馬・筑紫などに城を築いて、防人と烽(とぶひ)を置いて備えた。

壱岐那   12座(大4座、小8座)水神社・阿多弥神社・住吉神社(名神大)・兵主神社(名神大)
月読神社(名神大)・国片主神社・高御祖神社・手長比売神社・佐資布都神社・同佐農布都神社・中津神社(名神大)・角上神社。

石田郡   12座(大3座、小9座) 天手長男神社(名神大)・天手長比売神社(名神大)・弥佐支刀神社・国津神社・海神社〔大)・津神社・與神社・大国玉神社・爾自神社・見上神社・国津意加美茄神社・物部布都神社。

月読神社   「延喜式」神名帳の壱岐郡24座のうち、月読神社は名神神社である。天照大神を太陽にたとえ.月読神を月になぞらえたことから、487年、月読神社として天月神命を祀ったとされる。いまは小さな神社であるが、かっては大きな神域をもっていたと思われる。壱岐の県主の祖忍見宿祢が壱岐から、京都に分霊したことから全国に神道が根ずくようになったと、いわれ壱岐は神道の発祥の地と伝えられている。京都の松尾大社の横に月読神社、伊勢神宮内宮に月読宮、外宮に月夜見神社があるが、壱岐の月読神社が元宮とされている。

(3)壱岐国一の宮天手長男神社


 延喜式名神大社であった天手長男神社は、江戸時代に跡かたもなくなっていたのを橘三喜によって掘り起されて社殿が再建されたが、今も壱岐国一の宮という意識は島民に薄い。ここにきて、壱岐国の伝統を背負う人々と心ある人の中に.壱岐国一の宮の名に相応しいものにしょうとする声が上がった、その始めに文永・弘安の役の敵味方鎮魂祭をして、これから誕生する壱岐市は、壱岐国の復活とし、その中心的存在にしょうと動き出した。

天手長男神社   石田郡12座の内の名神大社3座の中で、天手長男神社、天手長比売神社の2座と、神社である。壱岐国ーの宮天手長男神社は天忍穂耳尊、天手力男命、天細女命を祀る。延宝4年(1676)3月12日より、平戸藩の国学者橘三喜(1635〜1703)は、延書式にのせられたる24社を尋ね、村々浦々をめぐった日「天手長男神社は壱岐国宗廟たりといへども、跡かたもなく」とし、「老婆が伝える事により田中の城山竹薮の中に分け入り、そのしるしを求めるに更に見つからず、所の者どもを集め薮の中をほらせ.神鏡1面、2座の石体を堀出し、その他上代の土器に埋もれる事その数を知らず」と「一の宮巡詣記」にと記している。すたれたるをば石社を建て、神号を記して:後世に伝えるべく藩主松浦鎮信のおおせと古老に伝えた。鉢形嶺経塚か5出土した石体は石造弥勒如来坐像である。三喜の式内社査定から12年後の元禄元年(1688)に物部鉢形の丘に本殿を建立され、棟札も残り、県下では当初の形態をとどめている。境内は577平方m(i75坪)、高い石段:を登ると質素な社殿がある白宝殿、拝殿とも間□約二間ぐらいのもので、石鳥居三基、石灯竃6基がある。寛保2年(1742)の「壱岐国続風土記」に、鉢形は神功皇后三韓御船出兵のとき、兜の鉢を収めた地で、橘三喜によって鏡3面が出土したとある。一の宮は芦辺町の湯岳興触の輿神社の地をさすという説もある。「壱岐神名記」には若宮といわれている。

 壱岐国物語」中上史行著には、豊後からに壱岐島鬼退治に来た百合若大臣が、鬼は退治したが、帰る舟を失い島にとり残されてしまった。一匹残した小鬼が百合若大臣のためにまめまめしく仕え食料や住まいの世話をしたと言う。この鬼を祀ったのが天手長男神社だと伝えている。百合若大臣を祀ったのが豊後国一の宮柞原八幡宮で百合若の強弓がある。鉄の大弓は備中国一宮吉備津神社にあるという。奥方の照日ノ前を祀ったのが肥前国一宮河上淀姫大明神であると、百合若が桃太郎だといわ;桃太郎民説とからんでいる。鬼にさせられているのは古代原住民系である。神功皇后征韓の凱旋の時に、郷ノ浦御津浦に上陸し、海辺に住吉大神を鎮座した。後に波の聞こえぬ島の中央の芦辺町に遷座した住吉神社は、壱岐では守厳な社である。天手長男神社の例祭は10月13日の神幸式、大神楽、大神楽奉奏がある。特殊神事として12月16日の報賽祭で大神楽がある。玄海灘の島らしく、風土五穀成就祈願祭が6月16日に行なわれる。

(4)文永・弘安の役

 文永11年(1274)10月5日夜明け、対馬の国府のハ幡宮に突然おびただしい火焔がおおった。その日の午後に西の海は一面に蒙古の軍船におわれた。午後4時ごろ佐須浦(小茂由)に接岸し、蒙古軍は民家に火をかけ焼き払った。そのときの様子を伝える確実な記録はない。元軍が対馬を制圧したのち、14日に壱岐の勝本・鯨伏方面に着岸し、残虐な荒々しい血があがって壱岐を侵した。やがて松浦半島の浦々島々を侵した。19日に元軍船900艘は博多湾にせまった。翌20日(太陽暦11月29日)からぞくぞく上陸;を開始し、激戦になったが、日本軍はたちまち苦戦に陥った。火薬というものを日本入は初めて見た。来襲した元軍はモンゴル兵のほか高麗軍や漢人軍もまじっていた。一方的に優勢に戦いをすすめていたが、夜に入って軍船へ引き揚げた。その夜半、大風雨がおこり.多くの船が難破して運命の岐路となった。高麗史では戦死・溺死する者1万3500人という。

文永の役古戦場   文永11年(1274)10月14日、壱岐を襲った高麗軍を迎え撃った守護代平景隆、が,衆寡適せず自刃した樋詰城の地とされる。ここに新城神社が建立された。境内には景隆の墓と:伝えられるものがある。神社の東方に、戦死者を葬ったといわれる仙人塚(県史跡)がある。弘安4年(1281〕5月21日、東路軍の一部と高麗兵は対馬に上陸した。6月末、江南軍の主力は平戸から五島列島一帯の海上に到着し、一部は壱岐を襲い、この戦いは激烈であった。27日になって江南・東路両軍は平戸島から肥前の鷹島へ移った。それから4日後の閏7月1日(太陽暦8月23日)前日夜半から吹きはじめた北西の風は夜に入って風涛は船をうち砕き、漂没した元軍の残骸は海面をおおった。難破して敗走した元軍の残兵数千人に猛烈な攻撃をくわえ、降参して捕虜になったものは干余人とも二干余人とも伝える。博多の那珂川あたりで全部首を刎ねた。

弘安の役古戦場(県史跡)   弘安4年(1281)、朝鮮南岸の合蒲を出発した来襲の東路軍は対馬・壱岐を襲い、さらに博多湾に攻め寄せたが、中国寧波を出た江南軍の一部と合流するため、一時、壱岐に撤退した。これを鎮西御家人は、小船で壱岐に渡って、激戦が行なわれた。有名な肥後の御家人竹崎季長もこの合戦に加わったという。瀬戸浦の丘陵には.戦死した少弐資時の墓がある。その霊を祀る壱岐神社が建てられている。

(5)松永安左エ門
 印通寺浦は石田町の中心地で、壱岐から九州に最も近い港で、奈良時代の律令制下では優通駅という駅家が置かれ、今は印通寺港には唐人神が祀られている。わが国の電力開発の先覚者であり、電力の鬼といわれた松永安左エ門(1875〜1971)の生家がある。松永安左エ門は、慶応義塾を中退、福沢諭吉の女婿桃介との共同事業を降出しに実業界に入り、福博電気軌道会社を與して以来、北九州で電灯電力・ガス事業を経営した。のち名古屋に進出し、大正11年(1922)東邦電力を設立し、五大電力の一つに発展させた。第二次大戦後も電力再編成などで活躍した。茶人美術品蒐集家としても知られた。松永安左門翁を慕って、壱岐人による雪州会がつくられている。

壱岐松永記念館  明治・大正・昭和の3代にわたって、電力の鬼・電力王として終生その指導開発に尽したことをたたえ、生家の敷地内に松永記念館をつくり、生家と氏の文書・所持品を永く保存展示し,あわせて石田町立民俗資料館も併設し、考古資料などを展示している。