情報源  「壱岐国史 山口麻太郎著」
第三章 壱岐島の出現
第一節 島の開拓者
 以上、史前時代の状態、その周辺の形勢について、遺跡や遺物の概要について眼をくばって見てきたわけである。この壱岐の島に人間が居住し始めたことは意外に古く遠いわけであるが、壱岐を定住の地と定め、その住民が一本となって経済的に社会的に、島の生活を開拓しようとするに至ったのは弥生期になってからだと思う。それではどうした人間が、どうして開拓してきたかということになる。日本列島に渡ってきたものは皆海島生活者であった。その中心的集団が北九州の地にあったということも凡そわかる。そして二次的に韓・漢の民族が北九州に入りこんできたということも事実のようである。

その前に、壱岐が北九州によって占拠され、その先端は対馬から遠く朝鮮半島にまで進出していたことも否定できないであろう。漢が朝鮮半島に出てきてから、日本と朝鮮を通して漢との交流が開けていたこともまちがいあるまい。

天平十三年(741)聖武天皇は金光明四天王護国寺を国々に創建せんと発願詔勅を下された。その時壱岐島は新たに建立せずして、壱岐直(なおい)の氏寺を以って国分寺にあてられたことは「延期式」に明らかである。壱岐には当時既に、国分寺に相当する寺を、一族の氏寺として持っていた壱岐氏があったということになる。この壱岐氏は「顕宗朝阿閉事代任那へ奉使せしに月神の託宣ありて、我祖高皇産璽(たかみむすび)は天地鎔造の功あり宜しく民地を奉れとあり、事代其由を奏せしに因て、山背の歌荒樔田(うたのあらすだ)(葛野郡)を奉り、壹岐県主押見宿璽(いきのあがたぬしおしみのすくね)をして祠に侍あしむ」と『日本書紀』にあるその押見宿璽である。

県主は国神の家、その地方の豪族地頭であるが、県主はすべて国造とともに大化の改新で廃せられた。この壹岐氏は根本は甚だ古い。『姓氏録』によれば「神別、天児屋根命九世孫。雷大臣之後也」とある。然して元を正せば帰化人(中国の長安の人で劉家揚雍の稜(子孫なり、後漢の三国志の時代)であったらしい。『新撰姓氏録』に「左京諸番上、漢、伊吉連出自長安人劉家也。伊吉造、長安人劉家揚雍之後也」と記されている。漢種であったということになろう。

壱岐氏は海人族を率いて北九州・』壱岐・対馬朝鮮・中国の間に活躍した。雷大臣は対馬に定住し、その子眞根子は壱岐に定住して壱岐氏を称するに至ったのである。日本は海島であった。渡来者も海島人であったはずである。山人族といわれるものも元は海人族であった。この古代の海人族は沿海の要処を占拠した水師・水軍であって、後世の海賊大将・海賊屯営のようなものであったろう。船漕あり、船匠あり、付近には開拓した田地があり、浜海には嫡子・漁民の村落もあったといわれているのである。海人族の集団に海エ部・海人部(あまべ)がある。これは海人族の中から大和朝廷で直轄領の海岸を監理し、朝廷に海産物を献納した品部(ともべ)で、大和朝廷時代の人民支配の一方式部の一種である。だから海人部は特に朝廷から指定された海人族ということにな

部由・民部(かきべ)といえば豪族の私有民。租税や徭役を納める賤民ではなかたとされている。制度としての部(べ)は大化の改新以後廃止された。壱岐は最初これらの海上民たる海人族によって占拠され、開拓されたということになる。国津神とか天津神とかいっているけれども厳密にえば同じ渡来者であった。 ただその中に文化的素質の差が少しあったかと思われるのである。帰化とか投化とかの言葉で呼ばれるものもあったけれども、それは大倭国家が成立した後のことであった。

前にも書いたように壱岐には海人族が住んでいて、その統率者が帰化人の裔の眞根子というわけである。応神天皇の朝に壱岐に定住しているから壱岐氏を称するコトw許されたのである。帰化人であったけれどもよく大和朝廷に協力してその国造りに貢献したのであった。 国津神というのはこの種のものであったわけであろう。 日本列島の住民は周囲の各地から海を渡って来り棲んだであろうことは前に述べたのであるが、中でも風潮に乗って渡来した南方人が主をなしたものではあるまいか。初期日本民族の基層文化は南方的、暖国的であったということが強く感ぜられる。壱岐島に渡ってきて壱岐を拓いたという海人族というものもこの種の人たちであったと思う。

世紀前一、二世紀の頃から北九州と朝鮮半島の間に往き来が始まって、文化の交流がなされたようである。一、二、世紀となって倭国の成立が胎動し始めるとこれに協力し、帰化・投化ということが次第に盛んになってきた。この時に当たって壱岐はちょうどそのどちらにも通ずる門口であり、通路でもあった。あたかもそこに橋渡しをし、門番の役にあった壱岐氏が帰化人であったわけである。壱岐氏は大和朝廷の外交政策に如何に重要な働きをなし、重い責任の地位にあったかを想像することができる。同時に壱岐氏が率いる海人族の一団、その住民の根拠地となっている壱岐島の文化的地位というようなものを感ぜざるを得ないのである。

この壱岐氏は日本列島西辺倭人国の水軍を率いる一族長であったから、武人ともなったが、漢韓の事情に通ずるから外交官にも登用された。そうして日本の国津神として大和朝廷の国造りに参加したのである。壱岐氏はこのほかに今ひとつ大きな能力ト術を持っていた。大化の改新にはト部として親任され、神祇官にづけられた だから壱岐氏は改新の前後から後世にわたって多数の政治家、武人、外交官を出した。日本のト術については古事記は鹿の肩の骨を焼いて占うことを記している。しかし後の卜部は亀の甲の板に火を当て、亀裂のいり方で判断するものであった。ト占の方法は同じであったろうが、ト具の入手で前者は山部の方法であり、後者は海部の方法というわけであったろう。

昭和52年の長崎県教育庁文化課の原ノ辻発掘調査には、鹿占の資料といわれるものが出土していたことは前にも記した。鹿角の破片に炎の痕のように火を当てた痕跡あるものが出土していた。罅(ひび)は見られなかった。亀トの甲板の「ように規則正しいものではない。私はそれが鹿トのものであるかどうか疑問を感ぜざるを得なかった。