オピニオン 東大教授 山内昌之 幕末から学ぶ現在
川路聖膜 露を驚嘆させた交渉術 ユーモアと機知の外交 昨秋のメドベージェフ露大統領の国後訪問以来、北方領土にひきもきらずロシアの高官が押しかけている。緊張感をもって慎重に扱ってきた外交案件も油断すれはどうなるかという見本を見せつけられている。やりきれない気持ちの日本人も多いはずだ。そもそも一国の首相が「日本列島は日本人だけのものではない」といった国家観ゼロの発言をするから、ロシアは得たりやおうとばかりに挑発してきたのではないか。 一部の政治家は、まだこの簡単な理屈が分からないらしい。その外交感覚の鈍さ呆れ果てるばかりでなく、空恐ろしさすら感じてしまう。幕末以来の日本とロシアとの長い交渉史では、現在と違ってロシアをたじろがせた政治家や外交官も少なくない。川路聖膜はその代表格である。ゴンチャロフの『日本渡航記』には川路の洗練された横顔がよく描かれている。嘉永6(1853)年7月、開国通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎に来ると、勘定奉行の川路聖膜は西丸留守居役の筒井政憲と一緒に現地に出張し、ロシアの開国要求を断固退けた。 この提督に随行してきたゴンチャロフによる川路の描写は次のようなものだ。「この川路を私達は皆好いていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイットと、燗敏と、練達を示していた。明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」(井上満訳、岩波文庫) 巧みな弁舌と論理にユーモアや機知をからませた川路の外交交渉は、プチャーチンをも驚嘆させた。彼は帰国後に、川路こそ「ヨーロッパでも珍しいほどのウイットと知性を備えた人物」だと称賛している。 しかし、どれほど川路が練達の外務官僚であっても幕閣のリーダーに揺らぎがあれば折角の外交成果もだいなしになってしまう。川路は幕命を忠実に奉じて開国開港を遅らせたのに、帰路に同じ幕府がペリーの開国要求に屈した恥辱の報をいかなる気分で聞いたのであろうか。 幕府に殉じた律義さ 川路聖膜は官歴だけを見ればエリート役人に違いなかった。しかし、その出自は三河以来の直参旗下や御家人というわけでない。甲州出身の父は、ゆえあって豊後(大分県日田にたどりつき天領の郡代の下役となった。そこで同役の娘と結婚して聖膜が生まれたのである。 父は日田で蓄えた金を原資に江戸の御家人株を買って青雲の志を果たそうとした。これが子の聖膜にとっても、出世の糸口になったのである。本来の才能と勤勉と人格力があいまって、遠国奉行や勘定奉行そして、外国奉行のキャリアを重ねた聖膜は、他人と違って幕府に格別の恩を感じる律義さがあった。これこそ、幕府瓦解に際して聖膜が自決した悲劇の遠因となる。その一端は、辞世にもうかがわれる。 天津神に背くもよかり蕨(わらぴ)つみ飢し昔の人をおもえば 高天原(たかまがはら)から降臨した神の子孫、天皇の世が来ようとしている。しかし、徳川の臣として新時代に背を向けてもよかろう。周の武王を諌めた伯夷(はくい)と叔斉(しゆくせい)の兄弟が周の粟を拒否し蕨だけを食べて餓死した例もあるではないか、と徳川幕府への忠誠心に殉じて自決したのであった。 オブローモフ反面教師に 川路聖膜を聡明と常識とウィッの人と呼んだゴンチャロフは、知性をもちながら怠惰な生活で無為に明け暮れる人物を描いた小説『オプローモフ』の著者として知られる。川路がオブローモフでないことは確かだろう。しかし、ここまで日露関係で後れをとり北方領土問題の解決を不透明にした「現代のオブローモフ」たちがどこかにいることは間違い いない。それは誰かと問う前に、政権交代に酔いしれて外交の骨格にひびを入れた元政府首脳などは川路聖膜の事績を改めて学ぴ、せめてオブローモフにならない心構えが大事はないだろうか。(やまうちまさゆき) 〈かわじ・としあきら=川路聖膜>享和元(1801)年、豊後国(大分県)に生まれる。幕府の勘定所に出仕し頭角を現す。佐渡奉行などを経て嘉永5(1852)年、勘定奉行兼海防掛。長崎、下田でロシア使節と交渉し、安政元(1854)年に日露和親条約を締結する。 5年、日米修好通商条約の勅許を得るため奔走するが失敗。安政の大獄(1858乍59年)に連座し失脚した。慶応4(1868)'年、病床で江戸城開城の話を聞き、切腹の作法を取った上で拳銃で自決した。 情報源:産経新聞H23.2.10 |