山幸彦が壱岐国石田の県主から授かった御方
壱岐の石田 |
病から古代を解く 『大同類聚方』探索 槇 佐知子著(新泉社¥2100)』
玄界灘に浮かぷ壱岐の島は、対馬海峡と関門梅峡に面し.対馬と共に古來から海上の要所とされていた。遣隋使や遣唐使の一行も、この島で航海の安全を祈って祭祀をしたり、風待ちをした。大化の改新前は壱岐県主の支配下にあった地である。神奈川県三浦では五世紀ごろの亀トが発見されているが、中国韻代に盛んに行なわれた亀トは周代に衰えていった。それが日本に伝わって最も神聖なものとされ、奈良時代には公的なものとなった。そして八丈、壱岐、対馬、鹿島神宮、宇佐神宮などで行なわれた。現在でも壱岐では一子相伝の秘伝として継承されている。
この壱岐国石田郡は国府があった地だが、そこで彦火々出見尊が得た処方が、赤間稲置らの家方となり、「大同類聚方」に収められている。彦火々出見命は天孫ニニギノミコトと大山祇神の娘で絶世の美女、コノハナサクヤヒメを母として生まれた。一夜のちぎりで妊ったセめに、夫ニニギノミコトに疑われた姫は、産屋に火を放ってその中で産み、操を証明する。火が盛んなときに生まれた兄の火明命(火照命)に対し、火勢が静まったときに生れた弟を火遠理命(火折命)という。また、兄を毎幸彦、弟を山幸彦という神話は、広く知られている。
弟の山幸彦が海幸彦から借りた釣を失い、薪しく針を作ってあがなおうとしたが、海幸彦は承知しない。泣いていると塩椎神が無間勝間の舟に乗せて押し出Lている。東南アジアなどで使われている舟だ。やがて舟は海神の宮へ着き、海神の娘の豊玉姫にめぐりあう。そこで鯛が鈎針をのんで苦しんでいることを知り、釣針を取り戻す。海神は山幸彦に、兄に釣針を返すときの呪文や兄の収穫を減らす方法を教え、潮満殊と潮干殊を与て送りかえす。これによって山幸彦は海幸彦を従えて皇位を継承し、兄の海幸彦は弟に忠誠を誓い、隼人の祖となる。
この神話の海神を、大さな勢力やト占の方法を持っていた壱岐の県主に重ねて見てはどうだろうか。長門の赤間この「御方」を持っていた長門国赤間稲置とは、どんな人物なのか。長門国は三方が海に面した山陽道の両端にあった国で、現在の山口県西半を占めた。長門の国名は七世紀半ばが初見とされている。赤間は赤間が関ともいい、海の関所とされ、海流は宇治川よりも速いといわれた。稲置は稲寸、稲木、稲城、因支とも書さ、天津日子根命の子孫と伝えられている、また、稲置が県や邑に置かれたたのは成務天皇の五年九月(四世紀前)であった。
現在、赤間は山ロ県下関市にあり、下関市の住吉神社と福岡県北九州市門司区の和布刈神社(隼人明神)で、旧暦の大晦日から元日にかけて和布刈神事が行なわれている。安曇磯良が海底に入って紳功皇后に潮干珠と潮満殊を伝授したという伝説にもとづいて、海神に神饌を供えて祀ったあと和布を神官が刈る。この和布が元日の神饌となる。安曇氏は古代の豪族で、筑前国糟屋郵阿曇郷、現在の福岡県東部が発祥の地とされている。安曇磯良は神功皇后が三韓に赴くとき、すぺての神を鹿島に招いたが、海底の磯良は醜さを恥じて参加しなかった。竜宮に赴いて干殊・満殊を入手して神助皇后に捧げたので、皇后は勝利を得たーといわれ、霊的存在とされている。安雲氏は阿曇とも書き、わだつみの神を祖神とした海人の統率者であった。
この安曇磯良を祀る神杜が、なぜ隼人神牡なのか。
海幸彦が山幸彦に従ったとき、狗人と自称して吠声によって宮廷を警護し、俳優となって隼人舞をした、大隅隼人、薩摩隼人、日向隼入、甑隼人などがあるが、干珠・満珠といい、隼人明神といい、海幸彦を彷彿させるも由がある。
力サホロシヤミ
巻十八に収められた山幸彦にかかわる壱岐国石田の処方はカザホロシヤミの薬である。カザホロシは赤疹や白疹で、風疹または風疹と書く。たとえば、ハシカやチフス、ツツガムシ、ジンマシンのように、皮膚に発疹がが出る病気で、ムチ病は鞭で打つような痛みや帯状の発疹が出る「帯状疱疹」であろう。全く別の病気だが、病原菌の存在を却らない時代だから、類似した症状で分類するしかなかったのである。薬方の適応症は「風癬病のために熱があって口が苦く、食べられない者」となっている。
「赤間薬葉」
カハヤナギ(水楊、ネコヤナギ)
ツチタラ(独活)
ハチスノミ(邁実)
ヤマセリ(当帰)
カラスクハヒ(慈姑)
以上の五種を(以下欠)
畠山本の適応症はもっと重症で、右の症状のほかに「手足が蒲み、腹が急にひきつる。痒みはあったり、なかったり、一定の形のない発疹が出る」などが加わる。薬はハチスガキハチスミ(木檎実か)となっているほか、オンナカズラとハジカミ(ショウガ)が加わる。〔水蜴〕現代漢方でも解熱、収斂剤として使われているが、現代は樹皮を用い.古代には若い葉を治りにくい下痢の薬として用いた。中国では雲南地方で清熱解毒の効があるとして根を用いている。〔毒活〕セリ科シシウドやウコギ科のウドの根が解熱、鎮痛、発汗、鎮痒剤〔すくむのを鎮める薬〕などとして、現代漢方でも使われているものである。古代中国の藥名には「胡王使者」や「莞活」がある。胡も羌も西域を意味するが、それもそみはず、窪州や鵬西、南安に産し、後に漢や蜀からも出るようになったもので、古くから珍重されていた。窪州は現在の瑛西・甘粛の二つの省にわたる地である。〔蒲実〕ハスの実で、百疾を除き気力をつけるとして汝南の池沢産のものを用いたが、後に各地で採れるようになった。ただし、妊婦や便秘の場合など禁忌もある。汝南は河南省汝南県で、漢代に置かれた。〔当帰〕中国ではニオイウドを用いるが、日本ではセリ科トウキの根を用いる。古代中国では瀧西の川谷のものを用いたが、七世紀には蜀や峡西、およぴ江寧、徐州産も用いるようになった。
(慈姑)オモダカ科のクワイはヨーロッパッバ、アジア、アメリ力に分布。滋養を与え虚寒の症状を正常にする。お節料理の材料。
畠山本で加えているオンナカズラは、セリ科センキュウの根茎で漢方薬の?窮、また川弓とも書く。補血、強壮、鎮痛剤として現代中国でも使われている。古代中国の武功で産した。江西に武功山、峡西に武功県と武功山があるが現在の産地は雲南と四川。ショウガは生薑と干薑があり、めまいや嘔吐、胸腹部の冷えて痛む者に用いる。
キハチスはア才イ科ムクゲ〔木裡)の白い花が収斂、止血剤だが、ここではミ実となっている。黄録色になった果実は内用と外用があり、編頭痛の治療や腹氷癌の抑制薬として現代中国で使われているもの。
薬剤の産地からも判るように、中国産のものがずいぷんある。壱岐は『魏志倭人伝』にも記されているくらいだし、朝鮮半島にも近く、いわば日本における海南島的な存在だったのではないだろうか。先にも書いたように、壱岐の統治者の勢力は相当に大きかったと思われる。『大同類聚力』には、このほか「壱岐国石田郡の県主」所伝の「アシナエヤミ」の治療薬や、「壱岐国壱岐郡の主」の浄腫の薬「壱岐薬」がある。
ポリネシアか、あるいは東南アジア系の海人族の安雲氏が勢力を持ち、わだつみのいろこの宮に住んで、潮の干満や降雨についての深い知識や高い文化を持っていたーと考えることもできる。安雲磯良が醜かったといわれるのは、顔面にいれずみをする風習があったことを意味するのではないだろうか。海幸、山幸の神話と『大同類聚方』に残る『壱岐国の処方』に残る壱岐国の処方、和布刈神事の伝説が、私の心の中で重なり合い、神話の裏にひそむ歴史の真実を語りかけてやまないのである。.
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