平櫛田中(ひらぐしでんちゅつ)物語 近代彫刻の巨匠
玉川上水は江戸市中への給水のため作られた、多摩川の羽村取水口から四谷大木戸まで43キロを流れる水道です。武蔵野の緑豊かな清流の文化遺産ですが、その玉川上水が通る小平市の静かな住宅地に平櫛田中彫刻美術館があります。
平櫛田中は明治・大正・昭和の3代にわたって日本の彫刻界をリードした巨人です。その功績により文化勲章を受章した田中は、昭和54年に小平市で107歳で亡くなり、その邸宅が小平市平櫛田中館になりました。その後に展示館が新築され、二館併設のいまの美術館になったのです。邸宅は国立能楽堂を模した設計で、ゆったりと落ちついた書院ふうの住居です。平櫛田中は明治5(1872)年6月1日、岡山県のいまの井原市に生まれました。生家は片山家あるいは田中家という2つの説があり、はっきりしません。
名前は倖太郎といいました。幼いころ広島県のいまの福山市の平櫛家に養子として迎えられました。きちょうめんな性格で、小学校の成績もよく、木のぼりや魚とりが上手な子だったそうです。 小学校を出た悼太郎は遠縁にあたる大阪の商家へ丁稚奉公(小僧になること) に出ましたが、休みには文学座の人形芝居を楽しみにし、乏しい小図解遣いをはたいて美術雑誌 『国華』 を読むようになりました。『国華』 には生涯の師として仰いだ岡倉天心やフェノロサが執筆しており、こうして美術への関心がふくらんでいったのでしょう。
21歳になった倖太郎は人の紹介で木彫の人形師・中谷省古に弟子入りしました。そこは職人の世界で、刀物研ぎばかりさせられました。しかしそのおかげで刀の性質を知ることになり、彫刻の基本をたたきこまれたのです。25歳のとき、倖太郎は近代彫刻を学ぶため東京へでて高村光雲の弟子になり、はじめ「田仲」と号しました。そのころ禅僧の西山禾山の感化を受けます。
日本彫刻会第一回展に 『活人箭=かつじんせん』 (明治41年) を出品しますが、この禅僧が弓に矢をつがえてふりしぼった姿は禾山から聞いた故事がモチーフで、天心から高い評価を受けました。 天心は前にこの欄に登場しましたが、明治美術界の大指導者であったばかりでなく、東洋文化や思想界を代表する人物です。大正2年、51歳で他界しましたが、田中は終生の師と仰ぎ、墓参りを欠かしませんでした。『五浦釣人=ごほちょうじん』『岡倉天心先生像』『感電』などは天心の人格に傾倒して生まれた作品です。
大正2年の 『尋牛=じんぎゆう』 は、山奥に牛をさがして歩く中国の老人の像です。あごひげを伸ばし、金つぼまなこで前かがみになった男の姿は、彫刻の未来を求めて歩きつづける自分の姿を示しているのかもしれません。 この 『尋牛』をはじめ、『法堂二笑』『灰袋子=かいたいし』 『維摩一黙』など仏教をテーマにした木彫群を生み出したころから号を「田仲」から「田中」に改めました。平櫛と田中という二つの姓を寄せたものでしょう。
仏教以外にもかわいらしい 『幼児狗張子』 や 『姉むすめ娘』といった作品もこしらえています。 日本の彫刻家として、また伝統技術の継承者として田中の責任と面目を表わすものに 『鏡獅子』 の制作を欠かすことはできません。歌舞伎の名優・6代目菊五郎をモデルとしたものでした。昭和12年、6代目が鏡獅子を演じていた歌舞伎座へ、田中は25日間一日も休まず通い、さまざまな角度から観察と研究を重ねたのです。
田中はまず大小いくつもの試作をつくりました。像の正確を期すために、自分のアトリエで6代目に何度も裸でポーズをとってもらいました。そうして菊五郎のきたえぬかれた筋肉や躍動する骨格を、ごとに彫刻として再現したのです。 この超大作『鏡獅子』 の制作は、第2次世界大戦のためにたびたび中断し、20年後の昭和32年になってようやく完成しました。高さ2メートル、ム口座も合わせて重さ375キロ (約百貫) の木彫極彩色の鏡獅子は、東京・千代田区の国立劇場のシンボルとしてロビーに展示されており、人びとの目を奪っています。
田中は90歳になつて文化勲章を受章し、昭和45年、東京・上野から玉川上水べりの小平市に移り住みます。新居を自分の年齢にちなんで九十八叟院と名付けました。この家で百歳を迎えたとき、「人間徒多事、田中徒百歳 (人間いたずらに多事、田中いたずらに百歳)」と詠んで、以後、面会を断わって制作に打ち込みました。田中は百歳を超えても漢籍や仏教や哲学の書物を熱心に読み、新聞を丹念に読んで彫刻の題材になるような記事に出会うと切り抜きをするというのが日課でした。衰えることのない好奇心と燃えるような探究精神の持ち主でありつづけたのです。
「六十七十ははなたれこぞう 男ざかりは百から百から」
「いまやらねば いつできる わしがやらねば たれがやる」
これらは筆を執って好んで色紙に書いた言葉です。また禅語の「古道少入行 秋風動禾黍(古道人の行くこと少(まれ)にして秋風禾黍を動かす)」をよく墨書していました。
田中は昭和54 (1979)年12月30日、107歳の天寿を全うして大往生しました。 平櫛田中彫刻美術館の庭の一角には、クスノキの彫刻用原木がどんと鎮座しています。樹齢約500年、直径1・9メートル、重量5・5トン。これは田中百歳のときに、あと30年分の創作材料として準備し、乾燥のため寝かせているものです。それは日本画家の横山大観や、地唄舞の武原はんの像を彫るためだったといいます。
「一番作りたいのが武原はんさんだ。その舞の姿には一種近づきがたいあでやかさがある。はんさんの芸術それ自身を完全に写しとることはできないだろうが、せめて一たちの美しさだけでも残したいものだ」 田中はそう語っていたといいます。不屈の彫刻家魂というほかありません。
石井秀夫=いしい・ひでお●昭和8年神奈川県生まれ。前産経新聞論説委員。同44年から平成16年まで「産経抄」担当。平成4年には同コラムで菊池寛賞受賞。
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