靖国神社・秀吉軍撃退の碑
韓国、反日利用か 「返還」要請波紋
「たかが石碑」で済まされぬ

 
靖国神社(東京・九段)の片隅にある小さな石碑の「返還」を韓国政府が求めている。豊臣秀吉の朝鮮出兵時に秀吉軍を撃退したことを記念したと伝えられる碑で、日露戦争の際に現在の北朝鮮から日本軍人が住民の同意を得て持ち帰った。
靖国神社は「韓国と北朝鮮が合意すれば引き渡す」としているが、識者からは「反日宣伝に利用されるだけ」と慎重論も出ている。
                  
碑の名は「北開大捷碑=ほつかんたいしようひ」。 「北開」は現在の北朝鮮北東部、「大捷」は大勝の意味。秀吉が朝鮮に出兵した文禄の役(一五九二〜九六年)の際、現地の義兵が加藤清正の軍勢に勝利したという内容が約千五百字の漢文で刻まれている。高さ約二b、幅約六十五aで、一七〇九年に今の北朝鮮咸鏡北道金策市に建てられたとされる。

 約二百年後の日露戦争の際、陸軍後備第二師団一七旅団長の池田正介少将が見つけて持ち帰り、日露終戦翌年の明治三十九年に靖国神社の軍事博物館「遊就館」に寄贈。現在は本殿南側の目立たない場所に建っている。

 韓国では義兵の子孫らによって「返還」運動が行われていたが、四月にジャカルタで行われた李海賛首相と北朝鮮の金永南最高人民会議常任委員長の会談で話題になり、今月六日の日韓外相会談で潘基文外交通商相が町村信孝外相に「返還」を要請。町村外相は「誠意を持って靖国神社との仲介をしたい」と答えた。靖国神社は「戻すとすれば当時建立されていた北朝鮮金策市が適切で、韓国と北朝鮮で調整が必要だ。その上で外務省から依頼があれば速やかに引き渡す」としている。韓国のメディアは日本軍が碑を「略奪」「強奪」したと報道しているが、靖国神社は「池田少将は建立した人の子孫の承諾を得て証書まで交わしている。陸軍省も戦利品ではなく歴史上の参考品として扱った」と指摘。国立公文書館アジア歴史資料センターにも「建立者の子孫に諮って承諾を得て運んだ」との史料が残っている。

韓国は日韓基本条約締結の際に文化財などの財産請求権を放棄しており、碑が引き渡されるとすれば「返還」ではなく、靖国神社の善意による寄贈ということになるが、韓国側は「日本軍に略奪された碑を取り戻した」と宣伝するとみられる。韓国政府は「日本統治が終わった記念日である八月十五日までに返還を実現し、韓国内で展示会を開いた後、北朝鮮に渡したい」としている。

 「日本の軍勢を撃退した」という碑を保管し続ける必要性は靖国神社にとっても日本人にとってもあまりないが、無条件での引き渡しには異論もある。『日韓共鳴二千年史』の著書がある名越二荒之助・元高千穂商科大教授は「靖国神社の判断を尊重するしかないが日露戦争勝利百周年の今年、『日本軍が略奪を行った』という虚偽の反日宣伝が行われるのはいかがなものか」と危倶する。
平成六年に長崎県・壱岐の安国寺から国の重要文化財「高麗版大般若経」が盗まれ、翌年、酷似した経本が韓国で国宝に指定されるという不可解な事件があり、文化庁が韓国政府に問い合わせたが確認を拒否されたまま時効が成立した。また、韓国南部の巨済島には日本統治時代、東郷平八郎直筆の「本日、天気晴朗なれども波高し」が刻まれた石碑が立っていたが、終戦後に真っ二つに壊され、ドブ板にされた後、倉庫に放置されている。「こういった歴史遺産の返還を逆に韓国や北朝鮮に求めるべきだ」と名越氏は言う。

 拉致被害者の「救う会」副会長でもある西岡力東京基督教大教授は「最終的に北朝鮮の手に渡るなら『たかが石碑』では済まされない。外務省は『まず拉致被害者を返せ』と要求すべきではないか」と話している。(渡辺浩)
情報源:(産経新聞H17.5.23)