特集 日本共産党「平和の党」の裏の顔 朝鮮戦争参戦、旧通産省で火炎瓶実験、ヘロイン、売春、内部監視、秘密党員・・・ 日共、暗黒の地下活動 国連軍の北上を阻止すべく国内で展開されたテロ活動。この歴史を忘れてはならない。 朝鮮半島問題研究家●安部南牛(あべ・なんぎゅう) 正論」平成28年6月号 中核自衛隊を支えた祖防隊 大陸及び朝鮮半島南部の共産主義化-革命の為に朝鮮戦争当時、日本共産党(以下日共)が米軍の駐留する日本で後方撹乱工作を行っていたことを論じた著作は少ない。ソ連指導下の国際共産主義運動組織コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の指導で戦闘を指揮したのは日共の党員であったことは当時の警察関係、つまり取締方に多く記録されたが公表されることは少なかった。 一部公表されてもアメリカ帝国主義とそれに従属する日本独占「反共主義者」の陰謀・謀略と見られ、一般に浸透しなかった。確かに、朝鮮戦争の後方撹乱工作の実行部隊は日共の「中核自衛隊」であり、祖国防衛隊(以下祖防隊)であった。祖防隊は在日朝鮮人に拠って構成されていたが、中核自衛隊の傘下組織でもあった。その結成は朝鮮戦争の始まった昭和25(1950)年である。 日本の共産党組織には1935年から在日朝鮮人の社会主義者が参加し始め、1955年に両者が分かれるまで彼らが日共を支えた。朝鮮人共産主義運動の研究者として知られる坪江豊吉は「日常活動において日本人一般に比してはるかに執拗・果敢・猪突的であり、しかもその担当する闘争任務は、配布係、行動隊などのつねに危険な第一線方面であるにかかわらず、もっとも勇敢に活躍した」(『在日本朝鮮人の概況』)と記録している。 日共の地下活動の物質的保障を支える財政活動にはかなりの費用を必要とした。地下潜行幹部の防衛に要する経費や全国約5000人と推定される職業革命家の給与、活動費等は勿論、秘密会議場所や秘密印刷所、地下仕事場あるいは連絡場所(アドレス・ポスト)等の維持費は、かなりな出費であったろう。 しかも、一方公然面での各種集会、記念行事や機関紙・誌の発行、頒布等活発な大衆カンパニアを絶えず行っている党にとって、
財政支出が相当多額であることは誰でも容易に考えられる。とくに軍事革命11武装活動のための各種武器類の製作収集、貯蔵に要する費用や、更に昭和30年に開かれた第6回全国協議会(六全協)まで重要拠点、地域に定着して活発な工作を行っていた独立遊撃隊などの軍事活動費も軽視できない額に上っただろう。 これらの財源は、戦前の党の非合法時代に例をとると、専ら資金をコミンテルンに仰いでいたことから引き続きソ連などに仰いだであろうことが推察される。具体的一例では、藩陽で発行されていた『民主新聞』の1953年3月14日付号に、日共に対する援助資金として6億5777万5000人民元(邦貨換算1011万9462円)が送金された、と発表されている。昭和28年(1953)年の大卒初任給は大凡5000円だったから、今なら約40倍となる。 そこから計算すると今の貨幣価値では4億円以上であった。米国へ亡命したラストボロフ元ソ連代表部一等書記官の証言に、日共に対して米ドル30万ドルも渡した、とある。1951年のことで武装闘争の激しかった前年である。当時の米ドルは360円であったから、当時の日本円で1億円を超える。 当時の日共の中央財政は約1億円だと推定されていたから、ソ連の駐日代表部から1回渡された資金だけで年間維持費が調達できた。むろん中国からの援助金でも1割の維持費となり、少なくとも日共の中央には潤沢に闘争資金が供給されていたことになる。その後からソ連代表部のラストボロフに対して、志位正二元陸軍少佐(関東軍情報部参謀)が日共軍事委員会の活動報告をしている。志位正二元少佐もそうだが、シベリアに抑留され、帰還した関東軍兵士のうち、ソ連への忠誠を誓って帰国した、いわゆる「日本人スパイ」は8000人もいた、とラストボロフは証言したとの報道もある。 ソ連としてもカネを出した以上は成果が欲しかったのだ。ソ連は朝鮮戦争中の日共の諸活動を高く評価している。ちなみに志位正二元関東軍情報将校の甥が、日共の志位和夫現委員長である。 だが、日共はその基本財政を党費及び機関誌・紙代、寄付金及び事業収入であると説明してきた。更に日共は軍事財政について、政治指導を行う各級軍事委員会が、その所属する基本機関財政部からの支出を受けている、と説明していた。軍事的統括を行う統一司令部及び傘下の中核自衛隊や独立遊撃隊は現地調達を原則とする独立採算制をとっていた、そうだ。 しかし、その武装闘争を主導した中核自衛隊、山村工作隊、祖防隊が独立採算であったのだろうか?財政面からもコミンフォルムを構成した諸国からの支援が大きな手助けになったと推察される。 人民艦隊と人防機関 敗戦直後の日共の平和革命論は、いまや日本に於いては議会に多数を占めることによって政権を獲得し、更に、社会主義の方向に政権をもって行くことが出来る可能性が生まれたとする主張で、昭和25(1950)年1月にコミンフォルムから批判された。そのコミンフォルムは1947年9月にポーランドに各国の共産党の指導者達が会議を開き、結成された。 コミンテルンの後身に当たり、戦後の世界秩序の変革を目指す国際共産主義運動であった。コミンフォルムは、米国は日本占領軍や日本反動の手をかりて一切の民主運動を弾圧し、日共系の労働組合を粉砕しようとしている、と論じた。だから、日共は日本に於ける外国帝国主義の植民地的計画と日本反動の裏切的・反人民的役割を暴露しろ、といった。 ここでいう暴露とは、アメリカ帝国主義並びに日本の国家権力に対して暴力的に対峙しろ、ということであった。暴力革命論は階級闘争を主張するマルクス・レーニン主義から来る必然的結論である以上、日共が暴力革命論の立場に立つに至ったことは、共産主義者として本来の姿に立ち帰ったともいうことが出来るであろう。 コミンフォルムの批判を受けて日共が武装闘争へ進むと判断したGHQ(連合国最高司令官総司令部)はマッカーサー元帥名で吉田茂首相宛に共産党中央委員24名全員の公職追放を指令する。50年6月6日のことで、この追放を期に主流派の徳田球一らは非公然体制に移行する。いわゆる地下に潜ったのである。 朝鮮半島で北朝鮮軍が南下を開始する直前であった。コミンフォルムの批判を受けて、日共は1951年2月開催の第4回全国協議会(四全協)に於いて「軍事方針」を決定し、更に10月に開かれた第5回全国協議会(五全協)に於いて「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と云う遊撃戦の戦術を決定し、愈愈暴力による革命運動を正面から開始することとなった。 非公然体制下で日共の軍事方針が打ち出されたのはコミンフォルムの批判の上に立っているわけである。四全協にコミンフォルムが支持を与え、8月には「1951年テーゼ」として新綱領の草案が提出され、10月の五全協でこの「新綱領」が採択される。それと同時に新しい武装闘争の方針として「武装行動綱領」といわれる「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならぬ」が決定される。 次いで12月の全国組織者会議によって、組織活動に関する党の基本方針としての「組織綱領」(「当面の戦術と組織問題について」)が決定され、当面の組織目標が具体的に明示されることとなった。 この「新テーゼ」と「武装行動綱領レと「組織綱領」の3つの基本的な綱領が決定されるに及んで日共の党内の理論戦線は一応統一され、日共はこれによって党員全体並び大衆に向かって当面の闘争戦術を明らかにすることが出来るようになったのである。 暴力革命を支えるために日共は地下活動を活発化させた。当時の国民の目に映る日共とは、代々木のみすぼらしい建物から、全国の街頭で演説しビラ配る党員、職場や学校で『アカハタ』を配る党員などを通して見られた。その活動は街頭、職場、学校、農村の何処でも政治への不満を煽った。 その姿は、後に「拝や」と呼ばれたが宗教活動に酷似していた。だが、実際には10万人を超える正式党員と30万人以上の同調者(シンパ)を有して、極めて強固な団結を保っており、中央官庁から地方自治体までに浸透している。経営、農村集落、大衆団体の深部に食い入っていた。それらの組織を内と外から「革命意識」を扶植して、共産主義思想の正しさというか、マルクス・レーニン主義が新しい日本をつくる思想だと吹き込んでいった。 日共の大部分は秘密活動によって運用されていた。とくに、革命工作のための諸方針を策定し、指示・指導する各級指導機関、これを補助する事務連絡組織、それから軍事組織、防衛組織などの重要組織は文字通り視角外の強力な地下活動を展開していた。 その指導機関とは、中央から地方組織に追放幹部の一部(国際派は省かれていた)を含む日共首脳部が配置された各級ビューローを指した。ビユーロー(Bureau)とは事務所のことで、ビユーロクラシーは官僚主義、官僚政治、官僚制などを意味したが、共産党用語としてのビューローは、共産党再建をめざすグループを「再建ビューロー」と称したことから、特別の意味を持つようになった。 このビューローが日共の意志を決定した。各級ビューローは実行組織を持ち、非公然の日共の活動を一元的に指導した。代々木の日共本部は表面的な指導機関であって、この地下指導部の単なる外皮であった。 日共の地下活動とそこから起こされる武装闘争のために、全組織に指示.伝達・指導を補助する、支えるのが実務組織であり、それを守るために防衛組織が設けられた。 実務組織は幹部の護衛、上級機関と下部組織の秘密連絡、隠れ家や秘密集会場所の設営、秘密通信所の設置など非合法地下活動の根幹として実務的な任務に専従する活動家集団を指した。秘密連絡はレポ、秘密通信はポスト、地下活動の根幹はベルトなどと呼称された。目立たない学生党員、婦人党員から選抜された。 実務組織はテク組織とも呼ばれていた。日共は組織を防衛し、スパイの潜入を摘発し、反動分子に対して攻撃する「人民防衛監視委員会」を全国各地に組織する。略して「人防」と呼ばれており、全国人防代表者会議が開かれていたことから、日共内部では通用していた言葉でもあった。 防衛組織とは、巧妙に仕組まれた地下活動をさらに強力に防衛するため、党員の裏切りを密かに監視して日共の機密を守る組織であった。その上に、警察、公安調査庁などに触手を延ばして内情を探る組織でもあった。いわな日共における防護、検察、情報機関の役割を果たす組織でもあった。人防機関とも呼ばれた。「現代コリア」誌の発行人であった佐藤勝巳が、知人を紹介する時に「人を殺した経験のある奴だから」と、筆者に陰で注意した。 冗談だったのかもしれないが、人防機関に所属していたらしい。その上、コミンフォルムとの連絡に「海上組織」が設けられていた。世間には人民艦隊として知られた。 日共の地下指導部は、海上工作のために、特殊な秘密オルグ(工作者)集団を駆使した。これらオルグは、中央・地方・港区の段階に分かれそれぞれの地域の地下指導部の方針を体し各港を出入りする船舶内の党組織や港湾関係党組織に対して機動的に指導を行い、または自ら重点的な隠密の組織工作を展開している。 これらのうちには、とくに党幹部の海外脱出、国外連絡、密輸等の便宜を図るために特別任務に専従する者も定められていた。五全協での「われわれは何故軍事組織が必要か」で、米帝は近代軍事科学で武装された武力と暴力組織を持っているが、この武装された権力は平和的手段では闘うことは不可能であって、どうしても「軍事組織をつくり武装し行動する以外にない」と言っている。それには整然と組織された地下実務活動家の組織編成が欠かせなかった。それがテク組織であり、人防機関である。 ヘロインを密売する売春婦 朝鮮戦争では、米兵の間にヘロインが蔓延し、大きな問題となった。米国の国防総省が持たせたわけではない。米国は詳細な調査の結果、コミンフォルムが日本共産党を通して米兵へ売りつけたことを突き止めた。 1952年、国連の麻薬委員会で米国代表が「中共と北朝鮮は、日共の活動資金を賄うため麻薬取引を行っている」と非難した。これに対してソ連代表は「日本における麻薬密売は米兵が行っている」と反論した。 両者は嘘やデッチ上げの応酬をしたのではない。それぞれ真実を述べていたのである。つまり両者の言い分を足しあわせれば、実相がみえてくるのだ。中国と北朝鮮からヘロインを供給された日本共産党が米兵に売り、米兵がさらに仲間へと売りつけることで、米軍内で蔓延したということである。 日本へのヘロイン流入には当時、幾つかのルートがあった。主な流れは香港から下関・神戸であった。英国の植民地であった香港は、共産党支配下の中国大陸の動向を知る基地ともなっていたが、同時に中共政権の対日工作の基地でもあった。このルートでは貨物船が使われ、取り締まりが厳しくなった日本共産党の武装闘争時代は、先述の人民艦隊が小型船舶、主として漁船で東シナ海の波頭を乗り越えて往来していた。 日本共産党が中共や北朝鮮から受け取ったヘロインを米兵に直接供給していたのは「売春婦」たちだった。祖防隊が在日朝鮮人女性を売春婦に仕立てて米兵を誘惑させ、ヘロインで骨抜きにしていた。これも武装闘争と並ぶ後方撹乱であろう。 日本共産党は「愛国的売春」などという宣伝文句で朝鮮人女性らの愛国心を煽って、売春やヘロイン密売などの「地下活動」に従事させていたのだ。そもそも共産主義者が「売春婦」を闘争」の第一線に使う例は多い。 中共軍でも、蒋介石の国民党政府軍を性的に籠絡して戦闘意欲を奪う目的で「売春師団」が編成されていたことが報告されている。もちろん、「敵」の要員を籠絡してスパイに仕立て上げるために「売春婦」を使う、いわゆる「ハニートラップ」という彼らの手口もよく知られている。 日本国内の国連軍(米軍)の各基地の周囲には、売春婦、キャバレー、質屋、露店が密集し、売春やヘロイン密売の舞台としては絶好のロケーションだった。厚木・御殿場地区では朝鮮人と中国人の共産主義者(朝鮮人の方が数が多い)が街娼を使って米軍要員にヘロインを売っていたことが確認されている。 ちなみに日本共産党は当時、米兵向けに「ホテル案内」誌を刊行したことが知られている。この英文のパンフレットは、日本共産党がホテル業を始めたために発刊されたのではない。「売春婦」の紹介誌であったとみられているのだ。 コミンフォルムは共産陣営の勝利の為に、あらゆる手段を弄して日本へヒロインを密輸し、米兵へ売りつけていった。スターリンの指導下、コミンフォルム、そして中国共産党や朝鮮労働党はヘロインを販売して戦争費用を調達し、米兵を麻薬渦に陥れ、その戦闘力を削った。 まさに一石二鳥だった。日本共産党、そして在日朝鮮人の祖防隊は、米兵へのヘロイン密売で得た利益で朝鮮戦争の後方戦線で戦ったのだった。 日共の武装闘争 日共の1952年に起こした武装闘争、取り締まる警察側からは「集団犯罪」だが、その全体像、警察庁刑事部犯罪捜査かは270件だと記録している。これらを詳らかに検討するとコミンフォルムの革命方針(後方撹乱)に合致している。 その中で知られているのは、5月1日の皇居前広場のメーデー暴動事件、朝鮮戦争開戦記念日の6月25日の吹田・枚方事件、7月7日の名古屋・大須騒擾事件である。何れも中核自衛隊が祖国防衛隊を率いて火炎瓶を武器に戦っている。今は1952年の騒擾事件と云えば、東京、名古屋、大阪の三大騒擾事件しか知られていない。だが、当時の日本では国内至る処に騒擾事件が発生していたのだ。 それから各地の派出所、駐留米軍関連施設への火焔瓶投擲など今でいう都市ゲリラというか、中東・アラブ圏の新聞報道に見る騒擾事件を彷彿とさせる状況であつた。これら270件に及ぶ襲撃事件、騒擾事件は大阪に於ける吹田事件に見られるように日共軍事委員会指導の、人民武装のゲリラ的闘争であった。これらは日共の軍事方針によって計画され実施に移されて行ったのである。 これら3つの「騒擾事件」に共通するのは、先ず、名目を付けて大衆が動員されることだ。次に、日共軍事委員会が中核自衛隊、祖防隊などの精兵に火炎瓶などを準備させる。そして火炎瓶は駐留米軍を目標として投榔させる。一見、軍事闘争に見えないがそれは武器が火炎瓶だからであろう。 予め日共の軍事委員会の指導が入った示威行動だから、東京のメーデー事件、名古屋の大須事件、大阪の吹田事件は昭和27(1952)年の春から夏に掛けて行われた三大騒擾事件は朝鮮で最も苛烈に戦争が行われていた背景で戦われた。だから、東京ではマッカーサー元帥が君臨していたアメリカ帝国主義の象徴的建物である第一生命ビル近くへ押し寄せお堀端で米軍人を投げ込み、米軍所有の乗用車を焼いている。更に名古屋では米軍の駐車場に火炎瓶が投げ込まれ、大阪でも米兵の乗用車へ火炎瓶が投榔された。 その成果は北京・モスクワへ報告された。枚方における2つの武装闘争を指揮したのは、シベリア帰還兵であった。シベリア帰還兵が日共守口市委員会の軍事責任者を務めた。 シベリア帰還兵が軍事指導した河北解放戦線の綱領は三箇条からなり、 1、アメリカ帝国主義を粉砕する。 2吉田自由党政府とその手先を粉砕する。 3河北を解放し民族解放民主政府を樹立する。 それにしても一個大隊、100人を若干越す規模の青年行動隊で「河北」というから、大阪府河内地区、旧河内国の北部を指すのだろうが、勇ましかった。武装闘争をはじめてから、日共は旧帝国陸軍の経歴を持つ党員に着目し、例えば東京の軍事責任者は元下士官であった。日共守口市の委員会の軍事責任者の履歴が、関東軍兵士↓シベリア抑留⇒シベリヤ抑留⇒sベリア帰還兵⇒日共守口市委員会軍事 責任者⇒枚方工廠襲撃大隊・大隊長ということは、軍事技術と軍事作戦の両面から考えさせられる。 日共の軍事機関およびその活動で組織した大衆軍事組織は、「武装行動綱領」と「中核自衛隊の組識と戦術」に基づいて組織化された。 日共は、党自体の軍事組織としても、軍事委員会、軍事指導部、農村指導部(アヤメ)労働指導部(サツキ)等を設け、大衆の中に軍事思想の浸透工作を進めることに躍起の活動を続け、既に一部労働者組織や、農民組織、その他市民、婦人、平和団体の運動方針にこの思想が具体化される。 日共の軍事委員会は中央に1つ、地方軍事委員会が9つ、都府県の軍事員会が45であった。この場合沖縄は省かれ、別に道軍事委員会が3つ設けれれているから、北海道は広いから3つに分けられていたのだろう。更に、地区軍事委員会が190もあり、中核自衛隊は500隊、隊員数は8000名、独立遊撃隊は(独游隊)は34隊、隊員は154名と教えられていた。 軍事委員会は、軍事行動をもってその政策を推進し、指導する大衆軍事組織の組織機関としての機能を果たすべきもので、その姿を垣間見せたのが1952年の三大騒擾じけんであった。さらに、警察、保安隊(のちの自衛隊)駐留米軍に対する工作も行っている。 その具体的活動に沿って、統一司令部が設けられ、中核自衛隊および独立遊撃隊などの地域内の軍事行動を指導した。そして、中核自衛隊とは生活拠点、生産拠点における種々の反米・反政府の武装闘争の中核となって活動する組織であった。 祖防隊は在日朝鮮人に拠って組織された戦闘的組織であったが、その核心部分には南労党の対日工作があった。日共の行う武装闘争の激化に伴い、朝鮮労働党の指示・命令で日共傘下の中核自衛隊の実行部隊化されていく。独立遊撃隊とは、守勢のときに集中した力をもって米軍・警察へ攻撃を加え彼らの力を分散させる遊撃戦術を採る軍事組織であり、中核自衛隊員中より戦闘的な分子を選抜して構成した。今の言葉ではゲリラである。パルチザンと言い難かったのであろうか。 その武装闘争を支える武器の調達・製造は、「ビタミン療法」「料理献立表」「栄養分析表」「労農手帳」などの冊子を作成し、常に新しい武器の製造と性能の向上を図る努力が重ねられていた。昭和28(1953)年の秋には地方の軍事委員会が拳銃の各部品の製作図面を金属工場などの細胞、中核自衛隊員に流し、製造を指示していた。 長野県下では拳銃・実包からダイナマイトまでが家宅捜査などで見付けられている。警察の「資料」では、福島県下で軍事委員会が中核自衛隊員を中心に集合を掛けて地雷、爆弾の使用訓練をしたとある。 都内渋谷区の通産省関連施設内、分かり易く言うと甲州街道に沿って建てられている新国立劇場の場所、筑波への移転前には東京工業試験所があり、その試験所のなかに渋谷区民の野球大会の会場になる程の広場があった。その広場で日共の武装闘争時代に火炎瓶 の投郷訓練が行われたそうである。 それは火焔瓶の改良試験での投榔訓練であった。その成果で、火を付けてから投げる火炎瓶から、投郷して瓶が破裂してから着火する火炎瓶が開発された。ガソリンを入れた瓶の周辺に付着させる「着火剤」の試験を行ったのである。武装闘争での逮捕者のなかに通産省の職員も含まれていた。 姿は、後に「拝や」と呼ばれたが宗教活動に酷似していた。だが、実際には10万人を超える正式党員と30万人以上の同調者(シンパ)を有して、極めて強固な団結を保っており、中央官庁から地方自治体までに浸透している。経営、農村集落、大衆団体の深部に食い入っていた。それらの組織を内と外から「革命意識」を扶植して、共産主義思想の正しさというか、マルクス・レーニン主義が新しい日本をつくる思想だと吹き込んでいった。 日共の大部分は秘密活動によって運用されていた。とくに、革命工作のための諸方針を策定し、指示・指導する各級指導機関、これを補助する事務連絡組織、それから軍事組織、防衛組織などの重要組織は文字通り視角外の強力な地下活動を展開していた。 その指導機関とは、中央から地方組織に追放幹部の一部(国際派は省かれていた)を含む日共首脳部が配置された各級ビューローを指した。ビユーロー(Bureau)とは事務所のことで、ビユーロクラシーは官僚主義、官僚政治、官僚制などを意味したが、共産党用語としてのビューローは、共産党再建をめざすグループを「再建ビューロー」と称したことから、特別の意味を持つようになった。 このビューローが日共の意志を決定した。各級ビューローは実行組織を持ち、非公然の日共の活動を一元的に指導した。代々木の日共本部は表面的な指導機関であって、この地下指導部の単なる外皮であった。 日共の地下活動とそこから起こされる武装闘争のために、全組織に指示.伝達・指導を補助する、支えるのが実務組織であり、それを守るために防衛組織が設けられた。 実務組織は幹部の護衛、上級機関と下部組織の秘密連絡、隠れ家や秘密集会場所の設営、秘密通信所の設置など非合法地下活動の根幹として実務的な任務に専従する活動家集団を指した。秘密連絡はレポ、秘密通信はポスト、地下活動の根幹はベルトなどと呼称された。目立たない学生党員、婦人党員から選抜された。 実務組織はテク組織とも呼ばれていた。日共は組織を防衛し、スパイの潜入を摘発し、反動分子に対して攻撃する「人民防衛監視委員会」を全国各地に組織する。略して「人防」と呼ばれており、全国人防代表者会議が開かれていたことから、日共内部では通用していた言葉でもあった。 防衛組織とは、巧妙に仕組まれた地下活動をさらに強力に防衛するため、党員の裏切りを密かに監視して日共の機密を守る組織であった。その上に、警察、公安調査庁などに触手を延ばして内情を探る組織でもあった。いわな日共における防護、検察、情報機関の役割を果たす組織でもあった。人防機関とも呼ばれた。「現代コリア」誌の発行人であった佐藤勝巳が、知人を紹介する時に「人を殺した経験のある奴だから」と、筆者に陰で注意した。 冗談だったのかもしれないが、人防機関に所属していたらしい。その上、コミンフォルムとの連絡に「海上組織」が設けられていた。世間には人民艦隊として知られた。 日共の地下指導部は、海上工作のために、特殊な秘密オルグ(工作者)集団を駆使した。これらオルグは、中央・地方・港区の段階に分かれそれぞれの地域の地下指導部の方針を体し各港を出入りする船舶内の党組織や港湾関係党組織に対して機動的に指導を行い、または自ら重点的な隠密の組織工作を展開している。これらのうちには、とくに党幹部の海外脱出、国外連絡、密輸等の便宜を図るために特別任務に専従する者も定められていた。 五全協での「われわれは何故軍事組織が必要か」で、米帝は近代軍事科学で武装された武力と暴力組織を持っているが、この武装された権力は平和的手段では闘うことは不可能であって、どうしても「軍事組織をつくり武装し行動する以外にない」と言っている。それには整然と組織された地下実務活動家の組織編成が欠かせなかった。それがテク組織であり、人防機関である。 ヘロインを密売する売春婦 朝鮮戦争では、米兵の間にヘロインが蔓延し、大きな問題となった。米国の国防総省が持たせたわけではない。米国は詳細な調査の結果、コミンフォルムが日本共産党を通して米兵へ売りつけたことを突き止めた。 1952年、国連の麻薬委員会で米国代表が「中共と北朝鮮は、日共の活動資金を賄うため麻薬取引を行っている」と非難した。これに対してソ連代表は「日本における麻薬密売は米兵が行っている」と反論した。 両者は嘘やデッチ上げの応酬をしたのではない。それぞれ真実を述べていたのである。つまり両者の言い分を足しあわせれば、実相がみえてくるのだ。中国と北朝鮮からヘロインを供給された日本共産党が米兵に売り、米兵がさらに仲間へと売りつけることで、米軍内で蔓延したということである。 日本へのヘロイン流入には当時、幾つかのルートがあった。主な流れは香港から下関・神戸であった。英国の植民地であった香港は、共産党支配下の中国大陸の動向を知る基地ともなっていたが、同時に中共政権の対日工作の基地でもあった。このルートでは貨物船が使われ、取り締まりが厳しくなった日本共産党の武装闘争時代は、先述の人民艦隊が小型船舶、主として漁船で東シナ海の波頭を乗り越えて往来していた。 日本共産党が中共や北朝鮮から受け取ったヘロインを米兵に直接供給していたのは「売春婦」たちだった。祖防隊が在日朝鮮人女性を売春婦に仕立てて米兵を誘惑させ、ヘロインで骨抜きにしていた。これも武装闘争と並ぶ後方撹であろう。 日本共産党は「愛国的売春」などという宣伝文句で朝鮮人女性らの愛国心を煽って、売春やヘロイン密売などの「地下活動」に従事させていたのだ。そもそも共産主義者が「売春婦」を闘争」の第一線に使う例は多い。 中共軍でも、蒋介石の国民党政府軍を性的に籠絡して戦闘意欲を奪う目的で「売春師団」が編成されていたことが報告 されている。もちろん、「敵」の要員を籠絡してスパイに仕立て上げるために「売春婦」を使う、いわゆる「ハニー・トラ ップ」という彼らの手口もよく知られている。 日本国内の国連軍(米軍)の各基地の周囲には、売春婦、キャバレー、質屋、露店が密集し、売春やヘロイン密売の 舞台としては絶好のロケーションだった。厚木・御殿場地区では朝鮮人と中国人の共産主義者(朝鮮人の方が数が多い) が街娼を使って米軍要員にヘロインを売っていたことが確認されている。ちなみに日本共産党は当時、米兵向けに「ホテル案内」誌を刊行したことが知られている。 この英文のパンフレットは、日本共産党がホテル業を始めたために刊行されたのではない。「売春婦」の紹介誌であったとみられているのだ。コミンフォルムは共産陣営の勝利の為に、あらゆる手段を弄して日本へヘロインを密輸し、米兵へ売り付けていった。 スターリンの指導下、コミンフォルム、そして中国共産党や朝鮮労働党はヘロインを販売して戦争費用を調達し、米兵を麻薬渦に陥れ、その戦闘力を削った。まさに一石二鳥だった。日本共産党、そして在日朝鮮人の祖防隊は、米兵へのヘロイン密売で得た利益で朝鮮戦争の後方戦線を戦ったのだった。 日共の武装闘争 日共の1952年に起こした武装闘争、取り締まる警察側からは「集団犯罪」だが、その全体像は、警察庁刑事部犯罪捜査課は270件だと記録している。これらを詳らかに検討すとコミンフォルムの革命方針(後方撹乱)合致している。 その中で知られているのは、5月1日の皇居前広場のメーデー暴動事件、朝鮮戦争開戦記念日の6月25日の吹田・枚方事件、7月7日の名古屋・大須騒擾事件である。何れも中核自衛隊が祖国防衛隊を率いて火炎瓶を武器に戦っている。今は1952年の騒擾事件と云えば、東京、名古屋、大阪の三大騒擾事件しか知られていない。だが、当時の日本では国内至る処に騒擾事件が発生していたのだ。 それから各地の派出所、駐留米軍関連施設への火焔瓶投郷など今でいう都市ゲリラというか、中東・アラブ圏の新聞報道に見る騒擾事件を彷彿とさせる状況であつた。これら270件に及ぶ襲撃事件、騒擾事件は大阪に於ける吹田事件に見られるように日共軍事委員会指導の、人民武装のゲリラ的闘争であった。これらは日共の軍事方針によって計画され実施に移 されて行ったのである。 これら3つの「騒擾事件」に共通するのは、先ず、名目を付けて大衆が動員されることだ。次に、日共軍事委員会が中核自衛隊、祖防隊などの精兵に火炎瓶などを準備させる。そして火炎瓶は駐留米軍を目標として投榔させる。一見、軍事闘争に見えないがそれは武器が火炎瓶だからであろう。 予め日共の軍事委員会の指導が入った示威行動だから、東京のメーデー事件、名古屋の大須事件、大阪の吹田事件は昭和27(1952)年の春から夏に掛けて行われた三大騒擾事件は朝鮮で最も苛烈に戦争が行われていた背景で戦われた。だから、東京ではマッカーサー元帥が君臨していたアメリカ帝国主義の象徴的建物である第一生命ビル近くへ押し寄せお堀端で米軍人を投げ込み、米軍所有の乗用車を焼いている。更に名古屋では米軍の駐車場に火炎瓶が投げ込まれ、大阪でも米兵の乗用車へ火炎瓶が投榔された。 明白に駐留米軍を標的にした火炎瓶の投揮が行われている。その成果は北京・モスクワへ報告された。枚方における2つの武装闘争を指揮したのは、シベリア帰還兵であった。シベリア帰還兵が日共守口市委員会の軍事責任者を務めた。 着目し、例えば東京の軍事責任者県の軍事委員会が45であった。こは元下士官であった。日共守口市の場合沖縄は省かれ、別に道軍事委員会の軍事責任者の履歴が、関委員会が3つ設けられているか東軍兵士↓シベリア抑留↓シベリら、北海道は広いから3つに分け ア帰還兵↓日共守口市委員会軍事られていたのだろう。更に、地区責任者↓枚方工廠襲撃大隊・大隊軍事委員会が190もあり、中核 長という.」とは、軍事技術と軍事自衛隊は500隊、隊員数は80作戦の両面から考えさせられる。00名、独立遊撃隊(独遊隊)は日共の軍事機関およびその活動34隊、隊員は154名と数えられで組織した大衆軍事組織は、「武ていた。 装行動綱領」と「中核自衛隊の組軍事委員会は、軍事行動をもっ織と戦術」に基づいて組織化されてその政策を推進し、指導する大た。衆軍事組織の組織機関としての機 日共は、党自体の軍事組織とし能を果たすべきもので、その姿をても、軍事委員ム只軍事指導部、垣間見せたのが1952年の三大農村指導部(アヤメ)労働指導部騒擾事件であった。さらに、警(サツキ)等を設は大衆の中に察保安隊(のちの自衛隊)・駐軍事思想の浸透工作を進めること留米軍に対する工作も行っていに躍起の活動を続け、既に→部労る。 働者組織や、農民組織、その他市その具体的活動に沿って、統一民、婦人、平和団体の運動方針に司令部が設けられ、中核自衛隊おこの思想が具体化される。よび独立遊撃隊などの地域内の軍日共の軍事委員会は中央に1事行動を指導した。そして、中核つ、地方軍事委員会が9つ、都府自衛隊とは生活拠点、生産拠点における種々の反米・反政府の武装闘争の中核となって活動する組織であった。 祖防隊は在日朝鮮人に拠って組織された戦闘的組織であったが、その核心部分には南労党の対日工作があった。日共の行う武装闘争 の激化に伴い、朝鮮労働党の指示.命令で日共傘下の中核自衛隊の実行部隊化されていく。 独立遊撃隊とは、守勢のときに集中したカをもって米軍・警察へ攻撃を加え彼らの力を分散させる遊撃戦術を採る軍事組織であり、中核自衛隊員中より戦闘的な分子を選抜して構成した。今の言葉ではゲリラである。パルチザンと言い難かったのであろうか。 その武装闘争を支える武器の調達・製造は、「ビタミン療法」「料理献立表」「栄養分析表」「労農手帳」などの冊子を作成し、常に新しい武器の製造と性能の向上を図る努力が重ねられていた。昭和28(1953)年の秋には地方の軍事委員会が拳銃の各部品の製作図面を金属工場などの細胞、中核自衛隊員に流し、製造を指示していた。長野県下では拳銃・実包からダイナマイトまでが家宅捜査などで見付けられている。 警察の「資料」では、福島県下で軍事委員会が中核自衛隊員を中心に集合を掛けて地雷、爆弾の使用訓練をしたとある。都内渋谷区の通産省関連施設内、分かり易く言うと甲州街道に沿って建てられている新国立劇場の場所、筑波への移転前には東京工業試験所があり、その試験所のなかに渋谷区民の野球大会の会場になる程の広場があった。 その広場で日共の武装闘争時代に火炎瓶の投郷訓練が行われたそうである。それは火焔瓶の改良試験での投榔訓練であった。その成果で、火を付けてから投げる火炎瓶から、投郷して瓶が破裂してから着火する火炎瓶が開発された。ガソリンを入れた瓶の周辺に付着させる「着火剤」の試験を行ったのである。 武装闘争での逮捕者のなかに通産省の職員も含まれていた。六全協あと、秘密党員制度へ旧枚方工廠内に祖防隊の隊員が命を賭けて潜入している。その潜入隊員であった閾載是は「俺たちは工廠に爆破を仕掛けることに命を賭けたんや。電池の配線の手元が狂えばその場で爆死することも覚悟してたんや。 工廠爆破は失敗した。しかし俺らはまちがっていたとは思わん。ここで造られる砲弾で祖国の同胞が殺されるのだ。六全協で日本の同志は自己批判して済むかもしれんが、俺ら朝鮮人の場合はそうはいかんのや」と、述べたそうである。 武装闘争を日共が総括・自己批判したとされる六全協だが、それは不徹底でもあった。中核自衛隊の隊員として武装闘争に参画した脇田憲一の六全協の決議への批判は、「軍事方針と武装闘争の総括は最初からする気はなく、党の統一回復をめぐって両派の責任回避の野合が行われた」と、手厳しい。 そして、「下部からの批判の突き上げは、清算的だと抑えて、その責任は武装闘争を実践した下部党員に転嫁することでは両派主要幹部の利害は一致した」と、痛烈に糾弾している。 日共の武装闘争は主として徳田球一を首領とする所感派の責任とされているが、武装闘争を総括した後に主導権を握った国際派の領袖.宮本顕治には責任がなかったのだろうか? その宮本顕治は六全協で次の様に述べた。「民族解放民主統一戦線の結集と強大な党の建設、これは当面のいわばカギであります。基本方針をめざして当面の任務を実現するという立場からこの決議は過去の3つの重要なあやまりと欠陥を検討し、それぞれの問題と分野で、これを正しく発展させる基本点をあきらかにしたのでありぎす」(六全協記念政策発表会演説から) 宮本顕治は、3つの重要なあやまりと欠陥として、50年以来の日共党内分裂と極左冒険主義と日共のセクト主義を挙げている。武装闘争が多くの国民に犠牲と迷惑を与え、多くの党員の犠牲を招いたことへの「反省」の言葉は、一言もなかった。中核自衛隊に指導された祖防隊の関載是隊員の怒りが消されている。 日共の中央委員会は『日本共産党第6回全国協議会決議集』というパンフレットを刊行した。六全協の成果を党員に徹底させる目的であった。そのパンフレットには、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府にじぶんの地位を譲るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げだすと考えるのは、重大な誤りである」と明記している。 日共は六全協で、武装闘争を極左冒険主義であったと総括したが、日本の民主的変革を平和な手段によって達成し得ると考えるの吐霊 は間違いであると断定した。労働者.農民を煽って一揆的に火焔瓶を投げただけでは日共の主導する「民主政府」はできない、というのであった。 政府の機関、武力組織である自衛隊、権力行使の検察・警察への浸透から、レッド竃ノージを喰い拭った、払いのけることの出来た主要官庁への勢力扶植へ力を注ぐことになる。労働運動の色合いから理解されるのが、通産省、厚生省などへの工作が目立った。 六全協後の日共は、武装闘争の経験を生かして党員の秘匿を図って行く。主要な国家機関、重要な産業部門での秘密党員制度の整備である。それの根幹をなしたのがテク組織と人防機関であった。地下活動を通して蓄積したテク組織の経験は捨てがたいモノがあり、それの人材を秘匿するには武装闘争時代を徹底的に反省するわけには行かず、六全協での反省と総括が中途半端に終わったのであろ五全協からの武装闘争を指導した徳田球一を失ったことを、大きな痛手だと述べた宮本顕治は、六全協あとの日共の主導権を握ると、武装闘争時代の経験を生かして、強大な地下組織の建設に励んだ。 その組織化が公務員に偏重したのは、民間企業はレツドパージが貫徹され、その後も首切りが行われたことによる。その一方で公務員社会はレッドパージの荒波を潜れば、あとは法律的に身分が保障されたことが日共の勢力増殖を助けていった。日共は国家機関に対して"トロイの木馬"を仕掛けたのである。 GHQの行ったレツドパージと日共幹部の追放は、多くの党員を地下活動に走らせた。そして武装闘争が行われ、朝鮮戦争休戦後の世界情勢の変遷が六全協の開催となり、武装闘争は停止された。だからと言って地下活動と武装闘争を支えたテク組織の党員は表に出ることは先ずなかった。新たに秘密党員制度が整備されて行ったからだ。 その日共の秘密党員制度が力を発揮して、国民を稔らせたのが鈴木宗男議員への追及であった。あの「ムネオハウス」への言及とか、今も国会での幾つかの省庁での秘密漏洩などに、その情報を暴露する力には侮り難いモノがある。 漫画家の小林よしのり氏は、「新日本婦人の会」が詳細なレポートを「国連女子差別撤廃委員会」に送ったことから、「元慰安婦に国家賠償と公式謝罪」を求める、日本政府へ勧告案が出されたと指摘している。小林氏は、この「新日本婦人の会」は韓国の関連団体と提携をしており、日共と関係が深いとも指摘している。 当然のことだが、「新日本婦人の会」は、小林氏に拠れば日共との関係を否定しているそうだ。日共は多くのフロント組織を作っており、それらのフロント組織は日共との関係を否定する。それらのフロント組織は秘密党員制度を守る為に編成されたのであり、新日本婦人の会は日共のフロント組織の一つと見られている。 日共の武装闘争は主として徳田球一を首領とする所感派の責任とされているが、武装闘争を総括した後に主導権を握った国際派の領袖.宮本顕治には責任がなかったのだろうか?その宮本顕治は六全協で次の様に述べた。 「民族解放民主統一戦線の結集と強大な党の建設、これは当面のいわばカギであります。基本方針をめざして当面の任務を実現するという立場からこの決議は過去の3つの重要なあやまりと欠陥を検討し、それぞれの問題と分野で、これを正しく発展させる基本点をあきらかにしたのでありぎす」(六全協記念政策発表会演説から) 宮本顕治は、3つの重要なあやまりと欠陥として、50年以来の日共党内分裂と極左冒険主義と日共のセクト主義を挙げている。武装闘争が多くの国民に犠牲と迷惑を与え、多くの党員の犠牲を招いたことへの「反省」の言葉は、一言もなかった。中核自衛隊に指導された祖防隊の関載是隊員の怒りが消されている。 日共の中央委員会は『日本共産党第6回全国協議会決議集』というパンフレットを刊行した。六全協の成果を党員に徹底させる目的であった。そのパンフレットには、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府にじぶんの地位を譲るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げだすと考えるのは、重大な誤りである」と明記している。 日共は六全協で、武装闘争を極左冒険主義であったと総括したが、日本の民主的変革を平和な手段によって達成し得ると考えるのは間違いであると断定した。労働者.農民を煽って一揆的に火焔瓶を投げただけでは日共の主導する「民主政府」はできない、というのであった。 政府の機関、武力組織である自衛隊、権力行使の検察・警察への浸透から、レッドパージを喰い拭った、払いのけることの出来た主要官庁への勢力扶植へ力を注ぐことになる。労働運動の色合いから理解されるのが、通産省、厚生省などへの工作が目立った。 六全協後の日共は、武装闘争の経験を生かして党員の秘匿を図って行く。主要な国家機関、重要な産業部門での秘密党員制度の整備である。それの根幹をなしたのがテク組織と人防機関であった。地下活動を通して蓄積したテク組織の経験は捨てがたいモノがあり、それの人材を秘匿するには武装闘時代を徹底的に反省するわけには行かず、六全協での反省と総括が中途半端に終わったのであろう。 五全協からの武装闘争を指導した徳田球一を失ったことを、大きな痛手だと述べた宮本顕治は、六全協あとの日共の主導権を握ると、武装闘争時代の経験を生かして、強大な地下組織の建設に励んだ。その組織化が公務員に偏重したのは、民間企業はレツドパージが貫徹され、その後も首切りが行われたことによる。 その一方で公務員社会はレッドパージの荒波を潜れば、あとは法律的に身分が保障されたことが日共の勢力増殖を助けていった。日共は国家機関に対して"トロイの木馬"を仕掛けたのである。 GHQの行ったレツドパージと日共幹部の追放は、多くの党員を地下活動に走らせた。そして武装闘争が行われ、朝鮮戦争休戦後の世界情勢の変遷が六全協の開催となり、武装闘争は停止された。だからと言って地下活動と武装闘争を支えたテク組織の党員は表に出ることは先ずなかった。 新たに秘密党員制度が整備されて行ったからだ。その日共の秘密党員制度が力を発揮して、国民を稔らせたのが鈴木宗男議員への追及であった。あの「ムネオハウス」への言及とか、今も国会での幾つかの省庁での秘密漏洩などに、その情報を暴露する力には侮り難いモノがある。 漫画家の小林よしのり氏は、「新日本婦人の会」が詳細なレポートを「国連女子差別撤廃委員会」に送ったことから、「元慰安婦に国家賠償と公式謝罪」を求める、日本政府へ勧告案が出されたと指摘している。小林氏は、この「新日本婦人の会」は韓国の関連団体と提携をしており、日共と関係が深いとも指摘している。 当然のことだが、「新日本婦人の会」は、小林氏に拠れば日共との関係を否定しているそうだ。日共は多くのフロント組織を作っており、それらのフロント組織は日共との関係を否定する。それらのフロント組織は秘密党員制度を守る為に編成されたのであり、新日本婦人の会は日共のフロント組織の一つと見られている。
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