元寇遺跡・敵味方鎮魂地球平和祈願行
721年の歳月を経て神・仏・密教の慰震
全国一の宮巡拝会世話人代表
入江孝一郎  (社団法入日本移動教室協会理事長)

壱岐国一の宮天手長男神社のこ:とから元冠の役敵味方鎮魂へと進展し、9月16日から18日、壱岐で神仏、さらにモンゴル国最高の寺院のガンダン寺八ンバラマ管長狙下が壱岐に来るという思いがけないことが起きました。昨年暮れ、壱岐国分寺和尚は、僧侶として、甲斐が有ることができると喜んでいました。ところが最近、身体が痩せ絶えられないことになりました。モンゴル国では元寇の役のことがあまり知られていません。日本との関係ではノモン八ン事件のこと直接に戦ったというので怨恨が残っています以前のモンゴル国駐日特命大使フレルパータル外務省参事宮は、モンゴル国営テレビ監督を連れて、壱岐での敵味方鎮魂供養地球平和祈願に参加し、モンゴル人に元冠の役を伝えたいと、ウランパードルでお会したとき言っていました。中世の日本にとって蒙古襲来は本格的な外国軍の侵攻をうけた唯一の経験です。「いたましい」「むごい」という言葉はこの悲劇から生まれた言葉と言われています。これは敵も味方にも言えることで、多くの「いのち」が無惨にも失われてしまったのです。弘安5年(1282)、幕府執権北條時宗は、敵味方供養のため鎌倉円覚寺を建立して弔っています。

元寇の役・蒙古来週
ここで歴史として捉えられている元冠の役を身近なこととして捉えみてみます。

文永の役 文永5年(1268〕、元の使者が国書を持参して通交をもとめたが、朝廷と薯府は拒否し、返書を出しませんでした。その後、何回も使者を送って来たが執権北条時宗はこれを追い返しました。神仏の力を感じている当時の日本人は、蒙古来襲に備えて神社や寺院は祈祷しました。一方、返書の来ないのを怒ったフビライは日本遠征を決意し、蒙古人・女真人・中国人など約2万人、高麗軍8000入・舵取り・水夫など6700入、合計900艘の船団で、文永11年(1274)10月3日、元軍は朝鮮合浦を出発し、対馬の佐須浦の海上に現れました。やがて上陸し、9日間も対馬にいたので広い地域で被害を受けました。

10月14日、元の大軍は壱岐の北西海岸沖に現れ、400人ばかりが上陸し、赤幟をかかげ、東方を3度、沖の方を3度拝んだといいます。平景隆は百余騎をひきいて戦いましたが、全員戦死しました。壱岐を侵した元軍は、松浦半島沿岸の浦々と島々を侵し、10月19日、博多湾に進入し、翌20日、上陸を開始し、少弐景資が大将として陣をはり、博多に進撃する元軍をむかえ討ちました。しかし、博多の各所に火の手があがり、箱崎八幡宮も焼け、日本軍は太宰府まで退きました。元軍は夜になると軍船に引揚げました。それが朝になると博多湾をうめつくしていた元の軍船が、うそのように姿をけしていました。博多湾から姿を消した元軍の大船隊は、約4万入のうち1万3500入がかえらず、11月27日、高麗の合浦に着いた。

弘安の役・文永の役で元軍の強さをみた幕府は、北九州の防衛を強化し、博多湾沿岸には石築地といわれへる高さ2mの防塁を築きました。しかし、文永の役で荒れはてた壱岐・対馬では・わずか狼煙台を設け見張りの兵をおいただけでした。建治元年(1275)と弘安2年(1279)、日本の服従を求める元の使者が来ましたが、暮府は龍口と博多で死刑にしてしまった。フビライは第2回の日本遠征を決意し、蒙古人・高麗人と中国北部の漢人からなる4万人、900艘の軍船が合浦から出発する。南宋入からなる蛮子軍10万人、3500艘の軍船が江南から出発し、両軍は壱岐で合流して一挙に日本を攻める作戦をしました。弘安4年(1281)5月3日、合浦を出発し、5月21日ごろ対馬に上陸しました。その後、壱岐に来る途中、大風にあって130人の将兵と水夫36人が行方不明になっています。守護代少武資時は、19歳激戦のすえ守備隊全員が戦死し、文永の役と同じむごたらしい様子が伝えられています。6月6日から13日ごろまで東路軍は博多に攻め、激しい戦いが続きました。元軍の船団では疫病が流行しはじめたので壱岐へ退いたので、日本軍は6月下旬、壱岐にいる元軍の大船団に攻撃をかけ、瀬戸浦・芦辺浦を中心の海上一帯で戦いが行われました。

一方、出発がおくれた江南軍は、7月、平戸や五島列島に到着し東路軍と合流、両軍兵員4万、戦艦5000艘の大軍で、20日以上も海上に浮かんで、27日になって全面的な攻撃が開始されようとしました。30日、風が吹出し、夜になると暴風雨となりました。太陽暦8月23日、多くの船は破壊、兵士たちは荒海に投げ出され溺れ死になり、生き残った元軍兵士たちは捕虜になったり、逃げ帰りました。溺死したもの元軍10万入、高麗軍7000人、14万の大軍はその四分の三を失いました。元冠の役は鎌倉幕府の寿命を縮め、やがて倭寇の活動の時代に入ります。


刀伊の来襲 蒙古来襲以前、寛仁3年(1019)3月27日、50余隻賊船が突如として対馬に来襲し、放火、殺人ををくり返し、殺された者や捕えられ者382人におよび、さらに壱岐北西海岸に上陸しました。悪魔のような乱暴をはたらき、4月13日まで北部九州沿岸を荒らし回りました。600余人が殺され、男女1200余人が捕えられ、380頭の牛馬、焼かれた民家と、莫大な犠牲がありましたが、賊の正体がわからず刀伊といい、高麗語で蛮夷を意味します。

元冠の役遺跡での敵味方鎮魂供養・地球平和祈願行 鎌倉円覚寺建立から721年、神仏密教による敵味方供養をすることが実現しました。モンゴル国からガンダン寺ハンバラマ管長猊下を迎え、その遺跡に立っことによって無数の魂が本当に救われます。とかく経済価値で評価しがちのとき、この行事を観光行事のイベントと間違われますが、本質的に違います。イベントの意味は『広辞苑』に、出来事。事件。勝負。試合の種目。試合ということです。歴史は未来を開く道しるべであることを、問われての行動です。刀伊・元寇の痛みを癒す鎮魂供養で、これが済んで壱岐国ルネッサンスが始まるのです。

9月14日(日) 福岡空港14:25→筑前国一の宮住吉神社→筥崎宮(蒙古碇石)→生の松原元窟防塁→博多(泊)

〃15日(月) 博多(2時閤)→長崎平和祈念像・原爆資料館→長崎空港16:10(OA0ハ367)→壱岐空港→壱岐(泊)

〃16日(火) 勝本町浦海海岸→火箭の辻→射場原→唐人原→タイノ八ル→干人塚→樋詰城跡(新城神社)→芦辺町壱岐神社→ここ坂→碇石→干人塚→壱岐国分寺跡→壱岐(泊)