元 寇(げんこう) |
【解説】 昔福岡に、湯地丈雄という人物が居た。どの地方にも居る、所謂「土地の有名人」という類の人であったのだが、明治の一時期には、全国でも少しは知られた男であったそうだ。史料に依れば、湯地は「一介の警部」であったという。憂国の情篤きことで有名であり、全国の小学生に呼びかけて「一銭貯金」を募り、それで海軍に艦艇を献納するような運動を行っていたという。 明治21年のこと、そんな彼は福岡の地に、元寇を顕彰する記念碑を建立しようと思い立った。動機については色々言われるところ多いが、当時次第に険悪の度合いを増していた、日清両国間の関係に影響されなかったということはないであろう。我が国にとって過去最大の国難であった元寇を顕彰することで、国民の士気を大いに高めようとしたのである。 湯地は決意するや直ちにその職をなげうち、元寇に題材をとった幻燈を手ずから製作して、それと共に全国を寄付を募って回ったという。しかし湯地の運動は余り当時の国民の心を動かさなかったらしい。賛同者も寄付も思うように集まらず、また、北条時宗と日蓮を組み合わせた銅像を建てる計画は、日蓮を取り上げることについて仏教諸宗より抗議を受けて暗礁に乗り上げた。結局当時の朝廷の権力者、亀山天皇の像を建てることで議論には決着を見たが、突然の仕様変更は湯地の夢の実現をさらに遠のかせた。 さてそんな湯地の数少ない支援者の一人に、永井建子という男が居た。若くして陸軍軍楽隊の要職に在り、才気煥発、行動的な熱情家だった。永井は少しでも湯地の助けになればと、明治25年、「元寇」の歌を製作する。其の譜に記した署名は「人籟居士」。既に広く知られていた彼のペンネームであり、陸軍軍人の肩書きを離れて世に出る時の彼の名であった。こうして、とある一人の憂国の士への私的な応援歌として、「元寇」は世に送り出されたのである。 歌は全国の津々浦々までに広がっていった。その盛行のされぶりたるや、「すべての軍隊すべての家庭に此の歌の声を聞かざるは無き」という程であったと、ものの本には記されている。やがて明治27年に日清戦争が始まる頃になっても流行は衰えず、戦地で日本のさる部隊が、この歌を高唱しながら数に勝る敵軍を追い払った等という話も伝わり来るに及んで、当時の国民的愛唱歌となっていった。 しかし肝心の湯地の銅像建立計画は遅々として進まず、福岡の地に亀山天皇の銅像が完成したのは明治37年のこと。実に16年が経過していた。 ちなみに湯地の長男に湯地啓吾という人物が居り、後藤新平等の援助を受けて蓄音機の研究に生涯を捧げ、後乃木希典大将の「私は乃木希典であります」という有名なレコードの吹き込みに一役買っていたことは、余り知られていない歴史の一側面である。 |
「Gunkadow」 |
※参考音源:キングレコード「軍歌メモリアル(1)」(KICX6186) |
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