(文永の役戦場)
浦海海岸(うらみ) | 湯ノ本湾に面する海岸で、ここから元軍の一部が上陸したといわれる。 |
射矢本(いやのもと) | 浦海の上の高地、元軍が上陸して矢を射かけた所が地名となっている |
.勝負本(しょうぶのもと) | 本宮西触にある古戦場、ここで勝負が決まったということで地名になっている. |
火箭の辻(ひやのつじ) | 本宮西触の高台にある古戦場、元軍が火矢を射たといわれる。火矢は、火をつけて飛ばす矢であったのか、てっぽうのような武器であったのかわわからない。 |
火 山 | 東触の天ヶ原海岸の左手の高台を火山といい、狼煙を上げた地点である. |
勝負坂 | 火山に通じる道を勝負坂とよんでいる。元軍が勝負をかけ戦いがが行われた地点と伝える. |
射場原(いやんばら) | 仲触の射場原は激しい矢合戦のあ⊃た古戦場である。高麗橋 仲触には高麗軍が架けたと伝える石橋があった。あくまでも伝承であるが、重量のあるものを通したのであろうか。 |
唐人原(とうじんばる) |
新城北触の平川橋付近の平地をさす。この地で、元軍と平景隆軍は激しい戦闘をした古戦場である。 |
タイノハル | 新城神社を中心にして新城北触から新城東触にまたがる地域である。元軍と平景隆軍が相対して戦った場所で、付近を流れる太刀洗川は戦死者の血で真っ赤に染まったといわれる。 |
千入塚 | 多くの人の死体を埋めたことから、この塚は千人塚とよばれている。千人塚の分布は主として勝本町内に多い。新城千人塚(新城東触)・射場原千人塚(仲触)・天ヶ原千人塚(東触)・立石千人塚(立石南触)・本宮千人塚(本宮西触)・浦海千人塚(本宮仲融)が残っている. |
姫御前塚 | 新城東触にある、平景隆の娘の墓の伝承がある。太宰府への連絡のため姫御前と家来の伴宗三郎が脱出したが、途中で姫は毒矢の傷で動けなくなった。宗三郎に連絡を頼み自害した。里人によって塚が築かれ、姫御前塚とよばれるようになった。 |
樋詰城跡 | 文永の役の激戦地、守護平景隆本陣があった。本丸は東西18間、南北14間、濠のまわリ65間、深さ7尺7寸。周囲208間、岸の高さ2間余あったと伝える。城より東に樋詰橋があり、その下流を太力洗川という。 |
千人塚 | 樋詰橋より38間、東に千人塚があり。方12間余の築地なり。松一株あり。、敵味方の死骸を埋めたという。今でも時折、白骨を掘り出すことがあるといわれる。 |
新城神社 | 現在、樋詰城跡には新城神社が鎮座し、境内は元寇関係の記念碑や、守護代平景隆の墓がある。 その墓は、1mの自然石を墓標とし、本殿前にある。これらの史跡を一活して「文永の役新城古戦場」として県指定史跡になっている。 |
かくれ穴 |
敵兵に追われて島人が、身をかくした穴である。別名、人穴ともいう。若宮神社のかくれ穴(新城東触)。さる川山かくれ(新城東触)、中津山かくれ穴(北触)、ジョーラクのかくれ穴(新城西触)、フルボーのかくれ穴(本宮西触)が残っている。 |