歴史の交差点 東京大学教授 山内昌之

ギリシャ人の自尊心

高校世界史を学んだ日本人は、哲学者ソクラテスや歴史家ヘロドトスを生んだ古典古代のギリシャについて、必要以上に知っていることが多い。しかし、この国は中世以後になると急に教科書から姿を消し、近代に入ってギリシャ独立戦争(1821〜29年)で再ぴ言及されるにすぎない。

東ローマ帝国の滅亡以降、およそ400年にわたるオスマン帝国の支配から独立を目指した運動とその後の国づくりのあり方は、欧州連合(EU)に依存しがちで、独立自尊の経済運営を放棄してきた現代ギリシャの個性の原型でもある。

そもそもギリシャ独立戦争は、ウクライナのオデッサに住むギリシャ商人らの「フィリキ・エテリア」(友愛協会)が外国で煽動したことに端を発するが、英国詩人バイロンやフランスの画家ドラクロウらのヨーロッパ人の共感や英仏露など大国の参戦がなければ、大国のオスマン帝国からギリシャ人が分離独立する力はなかった。

しかも、独立後のギリシャ政治は、ドイツのバイエルン王国の王子オットー(オソンー世)を招いて国王としながら、英仏露3派閥に分かれ、ドイツ人が政治の実権を握るなど政情が落ち着かなかった。

独立後のギリシャは、欧州の諸大国から60億フランの借款を得ながら、軍予算や負債償却に大部分が消え、土地改革による税収増の狙いも大土地所有者らの抵抗に遭った。1862年の調査では国土の35%が国有地である一方、農民20万人の所有地は16%にすぎず、産業のないギリシャで税金を払ったのは一部の農民だったのだ。

脱税と製造業の不在は、19世紀からこの国につきまとう欠陥にほかならない。あまりの生活苦に、トルコに移住するギリシャ人農民も続出したというから悲惨である。

国家破産状態だった当時のギリシャが近代国家として生き残れたのは、古典古代のギリシャを文明の源流と考える欧州の政治家や世論が国際関係で何かと後援したからだ。

オットーの王制が行き詰まると、ギリシャを後見する欧州列強は、デーンマーク王家からゲオルギオスー世を招き、1897年にトルコとの戦争で敗北しても、ギリシャに紛争の焦点となったクレタ島を事実上与えるなどの優遇をはかった。

20世紀でも続いた特待措置は、国力不相応の自己過信を国民に抱かせ、欧州に庇護された安逸をむさぼりながら
EUの介入に反発する独特な国民性の淵源となった。EUによる負債半減に感謝するギリシャ人がほとんどおらず、財政緊縮策や構造改革を嫌うのも、根拠のない自尊心がかちすぎているからだ。

オスマン帝国の継承国家の成功例がトルコ共和国だとすれば、ギリシャはこの帝国の悪しき遺産を現代に引きずっているともいえよう。2010年のトルコの一般政府債務残高の対GDP比がわずか42%なのに、ギリシャは142%にも上る。ギリシャ人もトルコ人のように口数少なく勤労に励むべきであり、口先で"自由"を謡歌するのを止めねばならない。

脱税や高年金を続けて国家が破産しても、もうギリシャにバイロンやドラクロワのような奇特な欧州人が現れないことだけは確かなのだ。(やまうちまさゆき) 
産経新聞h23.11.15