今年の一月の終わり頃のことであった。壱岐で元寇720年を記念して、少弐資時公の銅像を建てるという話が、坂口義臣氏からもたらされた。この話を聞いた時、私はトタンに胸のつかえがとれたような気分になった。それには訳があったのである。

外国特派員が行った「元冠パーティ」

それは今から二十年も前のことになる。その頃私は、世界各国の教科書を調べていた。アメリカの中等教育用教科書『文明の発展 The Growth of Civilization』を見ている時、私は驚いた。この教科書は「日本概説」の冒頭で「蒙古襲来」をとりあげているのである。そのとりあげ方は「中世のアジアにおいて、中東、インド、中国等の文明国が、野蛮なモンゴルによって侵略された。中国も朝鮮も侵略されたが、その中で侵略を免れた国があった。それが日本であり、二度ともモンゴルを追い払った」というような記述なのである。

この教科書の執筆者は、日本を紹介するに当たって「元冠」から入っているのである。このように「元冠」に注目するのは、アメリカの教科書だけではない。当時、東京駐在員であったオランダの特派員カレル・ウォルフレン氏(NRSハンデルスプラッド紙・当時四十歳)も、元冠には注目していた。

彼は昭和五十六(一九八一)年の初め、必要があって蒙古襲来のことを調べていた。その時「今年は弘安四(一二八一)年から数えて、ちょうど七〇〇年に当たる。日本ではさぞ公式、非公式の諸行事が各地で催されるに違いない」、彼はそう考えて各地の行事を調べてみた。ところが全然その予定がないのである。彼は腹だたしくなった。

「蒙古襲来は、日本史にとって重大なターニング・ポイント(分岐点)ではないか。神の意志で二度までも神風が吹いた。日本人が祝わないのなら、我々特派員だけでも祝おうではないか。今日素晴らしい東京ライフがあるのは、七〇〇年前にカミカゼが吹いたからだ。

今年やらなかったら、百年後になる」彼はそう思って、プレス・クラブの会長であるE・ラインゴールド氏(米国タイム紙社東京支局長)に話したら、一も二もなく賛成。言い出しっぺのウォルフレン氏が実行委員長になった。

それでは祝賀会の日時をいつにするか。最近の研究では、神風が弘安四年の八月二十三日(陽暦)の夜から吹き始めたことになっている。結局外人記者の集まりやすい日ということになって十月九日(金)夜に決めた。会場は東京・有楽町の電気ビル十階にある外人記者クラブの大ホールに決めた。

主催者はいろいろ工夫をこらした。会食の基調はモンゴル料理によるバンケット。アトラクションでは、長崎県鷹島で元冠船の調査をした茂在寅男東海大教授の講演、都山流尺八師範の肩書を持つ米人、ジョン・ネブチューン氏(二十九歳)の尺八演奏、中村又蔵氏の歌舞伎上演、田原順子氏の筑前琵琶「北条時宗」等。

日本側からは、次の方々がゲストとして招かれた。神風を祈り出したという伝説に基づいて日蓮宗の金子日威管長(塩田宗務総長が代理出席)、蒙古軍と戦った水軍の代表として前田優・海幕長(当日は海幕副長の吉田学海将が制服に威儀を正して代理出席)。

そして現代の執権に当たる人として歴代の首相に案内を出した。しかし岸信介氏は骨折、福田赴夫氏は風邪、田中角栄氏はお通夜、三木武夫氏は徳島県知事選敗北の傷心癒えず、鈴木首相は国会開会中、ということで一人も参加しなかった。彼らは「日本の首相はみんなカミカゼに吹き飛ばされちゃった」と言って、爆笑した。

たしかにこの年、政府の頭には「元寇七〇〇年」はなかったが、民間では祝賀行事を挙行した所がいくつかあった。福岡の筥崎八幡宮では式典が持たれたし、境内に「元冠」(明治二十五年・永井健子作詞・作曲)の歌碑が建てられた。また「日の本教壇」の元木素風氏は、有志とともに稲城市にある亀山上皇奉安殿前で、祭典を挙行した。(詳しくは拙著『世界に生きる日本の心』展転社刊、参照)

戦後派の人々の反応

そして今年は「元冠七二〇年」を迎えた。はからずも三月二十一日、私は東京の六本木にある信仰団体から講演に招かれた。聴衆は九百人を超えていて、演題は「スライドによる・世界に開かれた日本の遺産」と題した。これまで学校で教えられなかった我国の歴史遺産の中には、世界に誇るべきことが沢山ある。としていくつかの事例を紹介した。壱岐で挙行される「元冠七二〇年祭」の事業内容にも触れ、「元冠」(永井健子作詞・作曲)の歌詞も披露した。

講演が終わると、青年たちが寄って来た。「元冠」の歌詞と曲を教えて貰いたい、という。私が早速五線譜と歌詞を送ると、一週間もしない間に、合唱をテープに吹き込んで送ってくれた。早速聞いてみると、四十数人の若くて迫力に満ちた大合唱である。女性の声も入っている。指導は音楽に詳しい佐伯久美氏が当たったという。プロの合唱団の歌声とは違った心のこもった感動的なハーモニーである。

私はうれしくなって早速テープを坂口氏に送った。すると坂口氏から、元冠七二〇年記念事業実行委員会発行の『元冠』と題する冊子を百冊と、裏表紙に載っている「孤島の丘(防人の歌)」「黄泉の武士」、そして別に「弘安の嵐」の五線譜を送ってくださった。私は早速これらを合唱隊に渡した。彼らは練習してたちまち永井健子作曲の「元冠」を含めて計四曲を吹き込んで持参してくれた。

現代はたしかに戦前よりも音楽教育は進んでいる。しかし何より私が感激したのは、青年の反応であった。彼らは蒙古襲来の国難に起ち上がった我々の父祖の偉業に感動したのである。現代の若者は歴史の真実を知れば、直ちに甦るのである。そのために壱岐発行の『元冠』は大きな役割を果たした。

私はこの冊子を各地に送った。すると航空自衛隊が発行している『翼』という雑誌の編集長である南崎二佐から連絡があった。壱岐版の『元冠』に載っている「元冠大絵巻」をカラーで紹介したいので、原稿を書いて欲しい、という。

私が快諾して書いた原稿には、同じ頃ベトナムが三回にわたって元から侵攻を受け、三回とも追い払った話をつけ加えた。ベトナムの教科書は詳しく載せているし、ハノイの歴史博物館には、当時の遺物を展示し、図表を使って大きく掲示している。前記の「翼」は、私が平成八年にベトナムで取材した写真も使い、福岡県の鎮西身延山本仏寺の元冠大絵巻とともに掲載した。この掲載誌からの反響も大きく広がりつつある。(平成十三年六月十日記)