古里(故郷)の名将
   勝本町 平 畑  光
 正四位勲二等海軍主計中将深水貞吉は、明治二年(一八六九) 三月二十八日、深水正貞、ヱイの長男として、勝本浦の正村で生まれた。生家は代々の医者で、父正貞は三代目であった。母は病弱で三十五歳で病没した。明治十九年、貞吉十七歳の時であった。同年、貞吉は長崎へ行き医学を学ぶが、十八歳の時に上京し、上野の延寿院(住職は勝本出身の高僧であったと言う、志賀照林か) に世話になった。貞吉は斉藤弥九郎(神道無念流) の流れをくむ根岸信五郎の有信館道場(本郷真砂町)で師範代をつとめながら高橋塾に学び、のち独逸教会学校(現在の独協大学) へ入学した。

 明治二十八年(一八九五)独逸教会学校専修科を卒業した貞吉は、海軍少主計(のちの海軍主計少尉)候補生として海軍に入つた。明治三十年に海軍少主計、翌三十一年に海軍中主計に任官した。明治三十四年(一九〇一)海軍大主計時代にイギリスへ軍艦白雲の回航委員として出張し、帰路は白雲主計長として回航の任にあたった。その後、舞鶴鎮守府経理部をへて江都丸、関東丸の主計長を歴任し、明治三十八年、海軍主計少監(のちの海軍主計少佐)、同四十一年海軍主計中監大正「二年(一九一三)海軍主計大監、同八年海軍主計総監(のちの海軍主計少将)と累進し、大正八年十二月から同十二年六月まで第二十四代海軍経理学校長をつとめた。校長辞任後、海軍省経理局長となり、同年十二
月一日、主計官の最高位である海軍主計中将となった。
深水貞吉