アインシュタイン「神を語る」  エピローグ
アインシュタインの衣鉢を継いで戦場巡礼とアインシュタインから受け継いだ遺志をきっかけに長年懇意にしているヴエルダンのボワロン司教は、1982年10月にヴエルダンで開催された〈戦争犠牲者と平和の町・世界連合)の第一回国際平和大会で演説するよう、私を招いてくれた。リデイツエ、ワルシャワ、コヴエントリー、ヴオルゴグラードの市長たちに紹介され、ヒロシマの代表の手を握ったところで私は立ち止まった。次のような言葉が、のどまで出かかっていたのだ。

「アインシュタインは私に、

"
原爆は日本の最高司令部の臨席のもとで太平洋の無人島で爆発させることを希望していたが、トルーマンの軍事顧問がこのアイデアを拒否してしまったと話していました。アインシュタインがあの悲劇を聞いたとき、彼は誰に会うことも拒んで、八日間喪に服して引きこもったのです」。"

 しかし、アインシュタインの霊がこうささやいたような気がした。「私を弁護しないようにと言っといたのを忘れたかね」と。結局、この仏教の僧侶と言葉は交わさなかったものの、別の宗教家の顔が私の心に浮かんできた。それはフルトン・シーンだった。
           
 この
若き猊下(モンセニョール)は当初、「ユダヤ人は他者集団だ」とする階級的考えに積極的に従っていた。そしてアィンシユタインの宇宙的宗教(コズミック・りリジョン)の思想を(cosmic)から(s)を取ったら本物になる[cosmic=滑稽な]などと言って鼻で笑っていた。

私の長年の友でもあるシーンは、アインシュタインと私との対談の一部を読んで考えが変わり、後悔の念から、私を介してニューヨークでアインシュタインに関する特別放送番組を制作する許可を願い出たのだった。しかし、アインシュタインはこれを拒否した。カトリックを代表する最も有名な説教者の口からカトリック教徒は考えを変えたと言われても、アインシュタインはそんなことは意に介さないのだ。

「ノー」の返事をシーン司教に伝えたとき、時には上司の意見にあえて逆らってきた彼が、
どうして枢機卿にならなかったのかがようやくわかった。もし数世紀前に彼が生きていて、宗教裁判所へ向かう長蛇の列に加わっていたなら、ガリレオたちの名誉ある仲間になっていただろう。

 こうしたことをスタンフォード大学で詳しく話したとき、学生たちから、
もしアインシュタインがカトリック教徒だったら、ローマは彼を聖人に列することを認めたでしょうね、と言われた。私はこう答ぇた。「アインシュタインのなきがらを焼いた灰は、彼が望んだとおり、長い道のりを水に運ばれて、忘却の大海へと流れ込んでいったのです。もしこの世に生まれ変われるなら科学者よりも靴職人になりたいと言っていたこの人について、後世のために何か書くよう求められたなら、若者たちに向けて、次のような手紙を書きたいと思います。

 宇宙的宗教(コズミック・りリジョン)と世界青年会議を創設したいというアインシュタインの願いを実現するにあたり、
世界の青年は、個人の平等にふさわしい精神的な糧で自らの良心を養わねばならないことを銘記してください。ほぼ七〇年の間、私は自分の誓いを『神よ、あなたの平安のために私をお使いください』というアツシジのフランチェスコの言葉や『あなたの魂を見つめなさい。それは存在の次の段階への歩みが踏みしめるカーペットなのだから』というバラマハンサ・ヨガナンダの言葉で補いながら、繰り返し思い出してきたのです。

 アインシュタインが示唆した宇宙的宗教とは、伝統的信仰の宗教的価値を破壊するものではなく、イエスが母から学んだ
『開け、おおイスラエルよ、われらが神、主は一人なり』という言葉と調和し、イエスの弟子たちに対する挑発『あなたがたは、私よりさらに大きなわざを行うようになる。私が父のもとへ行くのだから』を許容するものをも包含しているのです。そして、宇宙的人間の集う館の入り口に、アィンシユタインを記念する次の言葉を、若いみなさんに書いていただきたい。『救いは自己認知である。最も内面の自己−絶対法則もしくは神ーへと至る道である』と。
                         

P245−エピローグ

       あなたのころの