オバマ氏の白い蝶ネクタイ ・・・・・ロサンゼルス支局長 松尾 理也 気を使うドレス・コード 「ドレス・コード」という言葉がある。式典やパーティーなどでの服装規定のことだ。もちろん、欧米でできあがった規則であり、日本人には少々なじみが薄い。 毎年この時期になると、そのドレス・コードが頭痛の種になる。アカデミー賞授賞式取材に、ドレス・コードがあって、授賞式の場は、「ブラック・タイ」 (黒い蝶ネクタイ)指定となるからだ。タキシード着用ということである。 むろん、破るためにあるのが規則でもある。最先端の人種が集まるハリウッドのことでもあり、その手の冒険には寛容だ。ただし、規則破りが許される最低限の条件は、規則を理解していることである。何も知らずに変わった服装をしているのではお話にならない。 半面、もし十分な知性といくぷんかのちゃめっ気があれば、規則を破ったり、無視したり、読みかえたりすることで、何らかのメッセージを発信することも可能だ。 込められたメッセージ このほど就任したオバマ米大統領はまさしく、そんな能力を備えたひとりだと思える。 就任式典でのミシェル夫人の鮮やかな黄色のドレスとコートに賛否両論が上がったのと同様、その夜の舞踏会での大統領の装いも、実はかなりの論議を巻き起こした。タキシード姿で登場した大統領がつけていた蝶ネクタイの色が、白だったからである。伝統的なドレス・コードによると、「ホワイト・タイ」は、燕尾服を着用するような最上級の格式を意味する。他方、前述した「ブラック・タイ」は一段リラックスした装いで、タキシード着用のことだ。その定義に照らせば、「ホワイト・タイをつけたタキシード姿」は自己矛盾にほかならない。 もっとも、ファッションは生き物だ。ブラック・タイといっても、杓子定規に真っ黒の蝶ネクタイを身につけなければならないわけではない。規則は破るためにあるとはいえ、純白の蝶ネクタイばかりは意表を突いた。「ホワイト・タイには燕尾服という常識を知らないのか。誰か教えてやれ」との声さえ上がった。 だが、オバマ氏ほどの人物が無知ゆえにそんな装いを選んだとは、とても思えない。むしろ、ドレス・コードの読み替えによって、何らかのメッセージを発信しようとした、と考える方がはるかに分かりやすい。何を言おうとしたのかは推測するしかないものの、例えば、「格式や伝統を尊重はしますが、墨守はしませんよ」といったメッセージだったかもしれないし、別のもっと深い意味を込めていたのかもしれない。 多重的意味を読み解く そんなふうに深読みしたくなるのも、オバマ氏の選挙戦を振り返ると、彼が自らの一挙手一投足に神経質なまでに気を配ってきた印象を強く受けるからだ。単に慎重なだけではない。時にさりげなく、時に大胆に、自らのあらゆる行動や言葉に、リスク覚悟で意味やメッセージを織り込んできた。一例を取ると、選挙中、「好きな歌は」と問われ、黒人ヒップホップ・グループ「フージーズ」の「レディ・オア・ノット」を挙げた。動画サイト「ユーチューブ」に曲の宣伝ビデオが残っている。 反逆をテーマにし、銃弾が飛び交うその内容を見れば、万人受けする歌ではないことは明らかだ。 では、狙いはなんだったのか。黒人層、および社会の現状に多かれ少なかれ不満を持つ人々にパンチのあるメッセージを届けようとした、と考えるのが自然だろう。一方で、ヒップホップなど聞いたこともない人々は、何のことやらわからず見過ごすかもしれない。そう考えると、実に巧妙に仕組まれた戦略にも思えてくる。 ちなみに、ライバルのマケイン氏が選んだのは、アバの明るいヒット曲「ダンシング・クイーン」だった。無難だが、逆さにふっても、メッセージなど出てこない。 オバマ大統領が迷宮のように入り組んだ多重的メッセージを発信し続けるのは、頭脳が優れているから、だけではたぶんない。それよりも、黒人としてしばしば自己を外部から否定的に規定され、それと戦いつつも受け入れを余儀なくされ、迂回しつつ反撃していかなければならなかった生い立ちにかかわっているに違いない。 明るく単純で、無知と揶揄されても気にしなかった、あるいは少なくとも気にしないように振る舞った、先の大統領とはまったく違う。そんな新しい米国の最高指導者とどう向き合うか。そこかしこにちりばめられた暗喩や記号、象徴、引用を、われわれはどこまで読み解けるか。 当然ながらそれは、アカデミー賞授賞式に何を着ていくか、ということなどとは、比較にならない難問となる。 (まつお みちや)情報源:産経新聞H21('09).2.1 |