笑いの作法:迷惑な駄洒落の連発
みなさんの近くに、聞きたくもないダジャレを連発して周囲をげんなりさせる人はいませんか。お申し出くださればもれなく笑害者手帳を交付いたします。「笑いの不自由な方」は、確かに存在します。そう言う人が偶然に組織などで高い地位にいる場合には、被害が増大します。地位に伴う強い発言力を持つからです。朝っぱらから「朝食は上野動物園だったよ。え? なにかって?パンだ! ん? だからパ・ン・ダ!」・・・。無理やりダジャレを聞かせようとする人は、ユーモアとダジャレを混同しているようです。そんな人に限って自分のダジャレに反応しない人を「あいつユーモアがわからん奴だ」などとムチャクチャなことを言ってたりするものです。
本来、笑いとはその人の人格に根座したもの。よってどんな笑いを好むかでその人柄を推し量ることさえなされるのです。気取った貴婦人がバナナの皮を踏んで転んだ。われわれは、この光景に噴き出します。しかしつえをついて足を引きずった老女が転んだ光景はどうでしょう。「笑害」を持った方の中には、これを笑う人がいるのです。思いやりと笑いが離れている実例ですね。程度の差こそあれ、ダジャレを周囲に押しつける人もこれと全くの同類なのです。笑いに対して最もシビアなのは笑いのプロである噺家(はなしか)の方でしょう。噺家の世界では、ダジャレに対して一つの不文律ががあります。ダジャレを言った者はその瞬間に人格を失い、その場での地位は最下位となる、というものです。
例えば寄席の楽屋で大看板の桂文楽(先代)が、「前座さん、ふとんがふっとんでますよ」と言ったとします。すると瞬時に楽屋での地位は最下位となり、日頃は虫けらのように小言をいわれている前座が「師匠!なに言ってんですか」お迎えちかいんじゃないっすか」とツッコミを入れることが出来ます。。いや、ここは必ずツッコまねばならないのです。ツッコむことで当該者を先程までいた地位に連れ戻すのです。こんな厳しい思いやりが、ダジャレの作法として存在するのです。このようにプロにおいて単なるダジャレはまともな表現とは認知されません。シロウトだって同様です。よほど出来のよいものならともかく、ちょっと思いついたから、ぐるいで口にされては、周囲の者の寿命を縮めるばかりで益はありません。
百万歩譲って、どうしてもダジャレを言いたい場合。言った後に「オレってバカじゃん!」「テヘヘ・・・」などと自分の所業の反省を「ひとりツッコミ」で表明すること。これが、共存への唯一の突破口でしょう。もしみなさんの近くに「笑害者」がおいででしたら、このコラムを切り抜いて、タイムレコーダーの上に張っておいたり、さりげなくコラムのコピーを机上に残すなど試みてはいかがでしょう。でも、「おーい、こんなとこにコピーがおっコピてるぞー」なんて言ってたりして・・・。嗚呼!
(産経新聞:平成11年3月5日「笑いの作法」柴崎直人の:食う寝る作法に読む作法から)
【小笠原流礼法総師範、聖徳大学付属中高教諭】
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