ブルーインパルス生みの親・参議院議員 源田 実

                            蒲谷 :「源田」と言うパイロットが居たでしょう、「源田サーカス」と言って宙返りや
錐もみ飛行等アクロバット飛行の隊長をやって、我々をヒヤヒヤさせたものだけ
ど,戦後国会議員に選ばれて偉くなったけど、追浜時代も優秀なパイロットとし
て評判だった。

彼は落ちるとすると、先に飛行靴を脱いで、それから落ちる方面
に迷惑をかけない為、操縦桿を縛り付けてから、自分がパラシュートで降りたと
言う話を聞いた事があるよ、又、彼は飛行機で落ちた経験が3〜4回あるとも聞
いている。
(情報源:追浜地域文化振興懇話会誌P-86座談会から)













「ブルーインパルス」が航空自衛隊と共に歩み、その名声を高め更に航空自衛隊に対する国民の親愛感を深くしたことは、隠れもない事実である。「ブルーインパルス」の名が生まれ、この組織が正式なものとなったのは、昭和34年夏のことである。それまでは非公認のまま研究訓練をやっていたのである。 編隊アクロバットは、操縦訓練としては甚だ有意義なものであるが、空中戦闘や地上作戦強力に直接役立つものではない。

 そこで問題は事故を起こしたときにある。年度教育訓練計画の大綱は勿論中央当局から示され、その細目を各級指揮官が定めるのである。従って、このルートに乗っていない飛行作業の事故については、その取り扱いに大きな問題があり、場合によっては殉職にもならないことが予想される。国のために身命を賭して日夜精進努力を続けている若者をこんな目に合わせてはまことにすまない次第である。

 私は航空幕寮長就任と同時にこのチームをオーソライズし、堂々と訓練も出来るし、また万一事故に合っても名誉ある処置がとれるようにと考え、その具体策について当時運用課にいた周防元成君に研究を命じた。数日後、周防君が案を持って来た。その骨子は。チームには操縦の極地を探求するという任務を与えるが、それは指名された特定の人に限られその他の者が同様のことをするのを禁ずるというものであった。

 それ以来、ブルー・インパルスは長足の進歩を遂げて今日に至ったのであるが、中でも国際的に大きな反響を呼んだ第一は、東京における万国オリンピック開会式に当り、式場上空に描いた未曾有の第五輪マークであろう。私が退官する以前からオリンピックの準備が行われ、自衛隊も応分の強力をしたのであるが、陸海にはそれぞれ強力の分野があった。しかし、航空自衛隊にはそれがない。何かないかと考えた末、思いついたのが開会式当日選手入場行進中に式場上空に五輪を描くことであった。

 私はそれを推進することを業務引継事項の一つに加えて自衛隊を去った。なお、国会議員になってからもこの問題について、当時オリンピック開催準備委員長であった参議員議員津島寿一さんに相談を持ちかけた。「各国それぞれ開会式に「出し物」を送っているのであるが、日本には何かあるのか?」と。「いや,それがなくて困っているのだ。今更花笠音頭でもあるまいし」という返事であった。そこで私は右の案を脱明し、津島先生からも推進していただき、美事な五輪を代々木が原の上空に画くことになったのである。

 万国博においては更に高度な技術を要する「EXPO’70」が描かれたのであるが私は当日初めて見て感心した次第である。F86Fによるブルー・インパルスが姿を消すことは.まことに名残惜しい。速に新しい機材と技価をもって更に高度なチームを作り上げてもらいたい。私は部外にあってもあらゆる協力を惜しまないものである。
(情報源・第一航空団発行「青い衝撃」から)