はじめにー国際的な情報戦を勝ち抜くために

 
尖閣諸島をめぐって対日攻勢を強める中国共産党政府や、竹島に不法上陸した韓国大統領の動向ばかりを見ていると、日本が国際的に孤立しているかのように「誤解」してしまいそうだ。敢えて「誤解」というのは、いわゆる反日国家というのは中国共産党と韓国、北朝鮮の僅か三力国に過ぎず、日本は決して「孤立」などしていないからだ。世界には百近くの国家が存在しているが、首相の靖国神社参拝に反対しているのも、中国と韓国だけである(北朝鮮は、靖国問題についてはそれほど日本批判をしていない)。

 にもかかわらず、日本が歴史認識の問題で、国際的に非難を受けているように見えるのは何故なのか。答えは簡単で、申国や韓国はもとより、欧米や東南アジアにおいて日本の戦争責任を追及する活動家グループが活発に活動して、あたかも国際社会全体が反日的であるかのように宣伝をしているからだ。反日国際世論とは、人為的に作られた「虚像」に過ぎない。

 一方、このような反日国際ネットワークと対抗して、大東亜戦争を評価し、日本に期待する親日国際ネットワークも存在している。その存在を教えてくれたのが、岸信介首相や福田赴夫首相の民間スタッフとしてアジア外交を担当した中島慎一郎先生だ。中島先生を通じてASEAN諸国の政治家や外交官と直接、話をすることができたおかげで、戦後日本が経済発展を遂げることができた背景に、大東亜戦争を評価するアジアの指導者たちの支援があったことを知ることができた。

 
また、アメリカの保守系シンクタンクや草の根保守、そして米軍関係者と付き合う中で、ソ連や中国共産党に対して警戒心を持ち、戦前から「強い日本」を支持するグループがアメリカに存在していたことに気づくことができた。
 ただし、日本政府が歴史認識について正面から答えることを避けてきた結果日本と敵対する国やグループによる反日宣伝が国際社会に行き渡ってしまっているのも事実だ。

 そうした現状に対する危機感からか、今度は「国際社会には理解されずとも、日本の主張を毅然として貫くのだ」という考え方が日本の中で急浮上してきているが、何の勝算もなく自己主張をしても日本の国益と名誉を守ることはできない。何よりも日本と敵対する勢力の実態を見極めることが重要だ。

 そして、せっかく日本の立場を支持する親日国際ネットワークがあるのだから、それを活用しながら日本の国益と名誉を守る外交を展開していくべきである。

 
そう考えて本書は四章構成にしている。

 
第一章は、現在の反日国際ネットワークの実態だ。特にアメリカを舞台にアメリカのニュー・レフト(新左翼)の活動家たちと中国共産党政府、そして日韓両国の左翼活動家たちが連携して、日本の戦争責任を国際問題にしようとしてきた経緯を詳細に暴いている。

 また、日本の戦争責任を追及する国際戦略が、戦前のコミンテルン(一九一九年世界を共産化すべくロシア共産党のレ一ニンが創設した国際組織で、共産主義インターナショナルの略称)系の学者たちの理論に基いて構築されていることを指摘している。

 
第二章は、いわゆる東京裁判史観に批判的な親日国際ネットワークについてだ。日本のマスコミはほとんど報道しないが、大東亜戦争を評価し、戦後も日本の発展に協力してきたASEAN諸国の動静とともに、在日米軍やイスラム諸国の日本認識についても紹介している。

 「大東亜戦争の遺産のおかげで、戦後の日本は現在のような発展を遂げることができた」という視点で、戦後の日本とアジアの関係を見直してもらいたい。

 
第三章は、アメリカにおける東京裁判史観の見直しの実態だ。冷戦終結を受けて旧ソ連のコミンテルン文書やアメリカの機密文書が次々に公開されるようになったことに伴い、アメリカではいま、保守主義者たちの手によって第二次世界大戦に到る歴史の見直しが進んでいる。日米関係に関して言えば、「日米戦争を引き起こしたのは、ソ連に好意的であったルーズヴェルト民主党政権と、アメリカの政権内部で暗躍したコミンテルンのスパイたちだったのではないか」という視点が浮上している。

 戦前、アメリカにおいて反日宣伝を繰り広げたのは、蒋介石率いる中国国民党だったが、その背後でアメリカの世論を反日へと誘導したのは、アメリカ共産党などコミンテルンのスパイたちだったのだ。日本は大東亜戦争においてアメリカと戦ったのだが、正確に言えば、「コミンテルンのスパイたちに操られたルーズヴェルト民主党政権と戦った」と言い直すべきだし、その観点から昭和史を見直していくべきである。

 しかも戦前のコミンテルンとルーズヴェルト民主党政権による日本敵視政策は、決して過去の問題ではない。この日本敵視政策によって生み出された理論と人脈が戦後も欧米や中国・韓国を含むアジア諸国の対日政策に影響を与え、現在の反日国際ネットワークを生み出したのである。

 言い換えれば、中国共産党や韓国の反日政策は、戦前から準備されてきたものなのだ。そう考えて本書のタイトルを「コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾迫り来る反日包囲網の正体を暴く」と附けた次第である。

 
第四章は、たびたび外交問題として浮上する「靖国神社」問題に関連して、国立追悼施設構想やいわゆる「戦犯」合祀の経緯などについて取り上げている。併せて天皇陛下が戦没者追悼を重視されていることや、学校行事として靖国神社・護国神社に訪問して良いことになったことなどを紹介した。本書が、国際的な「情報戦」を勝ち抜くための助となれば幸いである。


  目次 コミンテルンとルーズヴェルトの時限爆弾

 第一章 知られざる反日国際ネットワークの実態

 第一節 中国共産党と国際反日ネットワーク  アメリカで次々に結成ざれた中国系反日グループ


 二○〇六年(平成十八年)九月十日、米下院国際関係委員会(H・ハイド委員長)は第二次世界大戦当時の日本の「従軍慰安婦」に関して対日非難決議案を満場致で可決した。なぜ、かくも執拗にアメリカから戦争責任を追及されなけれぼならないのか。

 二○○五年四月、日本の国連安保理入りに反対して中国各地で起った反日暴動に対しても、四月十日の米紙ウォール.ストリート・ジャーナルは「日本に対して繰り言を言う前に、中国自身の歴史解釈を見つめるべき礎」と強調する一方で「日本は過去についてもっとすべきことはあった」と指摘した。十日の英紙フィナンシャル・タイムズも同様で、「日本の戦後の平和主義や経済面での中国への寛容さを国民に知らせず、日本で歴史がゆがめられていると中国が訴えるのは偽善だ」と対中批判をしたが、「日本が過去を正直に認め、無条件に謝罪すべきだ」と、対日批判も忘れない。

 そのほか幾つかの英字紙を見たが、元慰安婦の韓国人女性の証言やデモに参加する中国人学生の発言を引用しながら、日本がいかにアジア諸国から信頼されていないのか、といったトーンの記事が目立った。歴史認識に限って言えば、アメリカのメディアも政治家もそのほとんどが、「過去の戦争犯罪に対して謝罪も補償も十分ではないため、日本は近隣諸国から信頼されていない」というイメージを抱いている。

 それはなぜか。日本による謝罪と補償が不十分だからではない。アメリカのメディアや政治家がもともと「反日」であるからでもない。

 
日本の戦争責任を政治問題化すべく一九八〇年代後半から、アメリカや国連を舞台に、在米のチャイナ・ロビーが韓国・北朝鮮系と連携して反日宣伝を繰り広げてきたからなのである。戦争責任を追及するアメリカの背後には、在米中国人グループがいるのだ。

 日本の戦争責任を蒸し返し、改めて日本に謝罪と補償を求める在米中国人によるグループがアメリカで初めて結成されたのは一九八七年のことで、その名は「対日索賠中華同胞会」(Chinese Alliance for Memorial and Justice)という。ニューヨークにおいてまず準備会という形で結成され、一九九一年三月に正式に結成された。

 このグループの主目的は「対日賠償請求運動を盛り上げること」で、以後、日本総領事館への要求書手交や署名運動、新聞意見広告の掲載などの活動を展開してきたが、その活動の広がりとともに九一年三月十五日、狙いを「南京大虐殺」に絞った政治団体を結成する。

 その名も「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」(Alliance in Memory of the Victims of the Nanking Massacre)で、その目的は「南京大虐殺の非人間性を広く世界に訴え、終局的に日本政府から正式な謝罪と賠償を引き出すこと」である。

 結成半年後の八月二日、この団体の代表チャオ・グオツェン(姜国鎮)がニューヨークのホテルで記者会見し、「南京大虐殺の現場にいたジョン・マギー牧師が撮影した事件のフィルムを発見した」と公表した。日本のマスコミが「南京大虐殺の証拠フィルム見つかる」と言って大騒ぎした曰くつきのもので、あるいは覚えておられる方もいるかも知れない。

 こうしたニューヨークでの動きは、中国系が多いカリフォルニア州にも飛び火していく。九二年五月二日、カリフォル二ア州クバチーノを拠点として、やはり中国系アメリカ人を中心に「抗日戦争史実維護会」(The Alliance for Preserving the Truth of Sino-Japanese War)が結成される。

 その目的は、「大戦中の近隣諸国に対する日本の残酷な暴行の事実を日本政府に認めさせ、中国人民に謝罪し、その犠牲者と家族にふさわしい補償を実施させる。更にまた、日本が再び不当な侵略行動を開始することを阻止するために、アメリカ、中国、日本及び他の諸国で、過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう国際世論を喚起すること」である。

 「日本が再び不当な侵略行動を開始する」とは、前年の湾岸戦争を踏まえ一九九一年(平成三年)十一月に国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、自衛隊の海外派遣に踏み切ろうとしていたことを指すと思われる。日本に謝罪と補償を求めるだけでは飽き足らず、日本政府の外交政策に対する反対運動に発展し始めたのである。

 この団体はニューズレター『抗戦史実通訊』を発刊し、全米各地の中国系知識人たちとのネットワーク形成に力を入れ、九四年六月十日には他の七団体とともに「全米華人の天皇への抗議と賠償請求公開書簡」を発表している。その内容は、次のとおり。


 天皇訪米に際して、「第二次中日戦争(一九三一〜四五)」で日本が犯した罪行について中国人民に陳謝・謝罪し、賠償するよう要求する。そして日中和解の条件は次の五項目である。

 @日本天皇が日本政府、皇室、人民を代表して、日本の中国侵略戦争とその罪行について中国人民に正式に陳謝し謝罪すること。

 A日本政府が中国およびアジアの戦争被害者とその家族に賠償を行うこと。

 B軍国主義のあらゆる行動を取り締まり、国際法と日本国憲法を遵守し、軍備拡大をせず、原子爆弾を造らず、国連常任理事国化の企図を捨てること。

 C中日両国の専門家による調査委員会を設置し、第一次中日戦争で蒙った生命と財産の損失を調査し、日本の賠償の根拠を明確にすること。

 D南京とハルピンと広島に「中国火劫(ホロコースト)紀念館」を設立する


 彼らのいう「日中友好」とは、国際条約に基づいて対等の関係となることではない。日本が一方的に譲歩して賠償に踏み切るとともに、日本の侵略行為を伝える歴史資料館を建て、今後、永久に中国の属国であり続けることを、日本が中国に誓うーーということなのである。

 この「全米華人の天皇への抗議と賠償請求公開書簡」以降、これら中国系反日団体は統一行動をとるようになる。九四年九月には、首都ワシントンのスミソ二アン博物館の原爆展計画に関して全米のアジア系十数
団体を組織して議会に請願を行った。その内容は、「展示には日本が原爆の犠牲者であることだけが強調され、アジア各地での日本軍の残虐行為については極めて簡単にしか触れられておらず、この傾向を是正しない限り展示は認められない」という典型的な日本侵略史観に基づく原爆投下容認論である。

 この原爆展反対運動を通じて中国系反日団体は、アメリカ退役軍人協会など保守系の軍人団体との関係を深め、フライング・タイガーのシェンノート将軍の夫人・陳香梅女史の推薦で「抗日戦争史実維護会」は、スミソ二アン博物館「原爆展」の審査メンバに選ばれることになる。

 フライング・タイガーとは、大東亜戦争前の一九二九年、日本軍と戦闘状態にあった中国国民党政府(蒋介石政権)を支援し、日本軍を攻撃するためのアメリカ空軍兵たちによる義勇兵組織のことだ。

 この義勇兵組織のトップがシェンノート将軍で、その夫人・陳香梅女史は戦後アメリカに在住し、共和党少数民族事務委員会委員長、ホワイト・ハウス輸出委員会副主任などの要職を歴任、歴代共和党政権のアジア問題のブレーンである。

 中国ロビイストの最右翼とも言われており、八九年六月四日の「天安門事件」によって決裂した米中関係を修復するために八月、ブッシュ大統領の密使として訪中、王震国家副主席とも会談しているほどの大物である。

 その大物の紹介で、アメリカの歴史観を代表するスミソ二アン博物館の企画展示委員に選ばれたということは、中国系反日団体が、アメリカ政府レベルにも意見を反映させるだけの立場を持ち始めたことを意味する。

 香港、カナダでも反日グループが結成される

 こうしたアメリカの中国系反日運動に呼応して、中国返還を十年後に控えた一九八八年、香港でも「香港紀念抗日受難同胞聯會」(The Chinese Alliance for Cornmernoration of the Sino-Japanese War Victims)が結成された。

 当時の香港は、中国共産党政府に対する不信感から民主化運動が起こったり、金持ちがカナダやオーストラリアに移民したりと、激しく人心が動揺していた時期である。その時期に、この「香港紀念抗日受難同胞聯會」は、「日中戦争によって中国人民が蒙った損害や犠牲者数について調査し、日本の軍国主義に対する人民の警戒心を喚起する。

 更に第二次大戦における戦争犠牲者への公式の謝罪と国家補償をしない限り、日本の国連安保理入りに反対する」という目的を掲げ、その目的追求を通じて「国籍に関係なく平和を愛する中国民族としてまとまること」を謳っている。

 言わば、「反日」を中国人としての最大のアイデンティティとして掲げたこの組織は、ホームページを見ると、尖閣諸島問題に特に力を入れており、「日本軍国主義による尖閣侵略」を非難するなど極端な「反日・抗日」を掲げて、精神的に動揺している香港人の気持ちをまとめようとしていることが分かる。

 ちなみにこのグルプを母体に二○○三年、尖閣問題に特化した「保釣行動委員会」が結成され、二○一二年六月十三日に中国及び台湾の団体とともに「世界華人保釣連盟」を結成している。同年八月十五日、尖閣諸島に上陸した中国人活動家は、この中心メンバーである。
・・・・・・・。



  第一節 靖国神社「A級戦犯」分祀論は誤りだ・
・・ ポスト冷戦は「歴史観」抗争の時代

 「次の日本のリーダーには靖国神社へ参拝してほしくない」ー 二○〇六年(平成十八年)二月二十二日、北京で開かれた「日中与党交流協議会」で中国共産党の劉洪才・対外連絡部副部長は自公両党の政策責任者に対してこう注文をつけた(傍点筆者、以下同)。

 続いて三月三十一日、胡錦濤国家主席が橋本龍太郎元首相ら日中友好七団体幹部との会談で、「A級戦犯が祀られている靖国神社を日本の指導者ががこれ以上参拝しなければ、首脳会談をいつでも開く用意がある」と言明した。この発言について唐家銑前外相は会談後の代表団との夕食会で「日本の今の指導者とこれからの指導者へのメッセージだ」と説明した。

 日中首脳会談をして欲しいならば、靖国参拝をしない政治家を次の総理に選べと桐喝したわけだ・その目的は、「小泉首相以後の日本の政治を、靖国問題を通じて自国に都合よいように再編成しよ.うとしている」(アメリカ議会のラリー・ウォーツエル「米中経済安保調査委員会」委員長)のである。

 永田町では、中国政府関係者が媚中派議員工作にいそしんでいる、という噂が流れた。そのためで
はないと信じたいが、与野党を問わず政治家たちから飛び出してくる言葉は、「ポスト小泉は、靖国参拝をしない政治家が望ましい」である。

 その旗振り役が、山碕拓前自民党副総裁だ。四月二十五日中国共産党の王家瑞対外連絡部長から、ポスト小泉を含めた首相の靖国参拝について『日中友好を進める上で影となる問題だ。解決してほしい」という要請を受け、山崎氏は七月十八日、自派のパーティーにおいて「現在の『政冷経熱』と言われる問題は、ポスト小泉政権で必ず解決しなければならない。

 大きなネックが靖国問題で、次期政権では柔軟な外交が行われるようお願いしたい」と強調している。山崎氏は何と中国の官営シンクタンクである上海社会科学院の客員研究員に就任し、中国の代弁者であることを自認している。しかも、山崎氏を始めとする与野党の政治家たちは口々に、中国共産党政府が提起する「靖国問題」を解決すべく、

 @いわゆるA級戦犯の分祀、

 A靖国神社の非宗教法人化・国家護持、

 B無宗教の国立追悼施設の新設、

 C千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充1といった案を提示している


 これらの意見に共通しているのは、わが国の「戦争責任」処理と、靖国神社について歴史認識が恐ろしいほど浅薄だ、ということである。自国の歴史をろくに知らずに「靖国問題」について発言するこれら政治家たちには、「ポスト冷戦」の意味が全く理解できていないと言わざるを得ない。

 米ソ冷戦時代は、社会主義イデオロギーとの戦いであった。この戦いに対して自民党は正面からイデオロギー論争を受けて立つのではなく、空前の経済繁栄を達成することによって勝利してきたといえよう。「論より証拠」で、物資不足に苦しむソ連や中国よりも、繁栄を謳歌しているアメリカや日本の方が素晴らしいではないか、というわけだ。このような戦いを主導する政治家たちが考えるべきことは、専ら経済成長であって、国防や歴史観は後回しにされることになった。

 しかし、ポスト冷戦は、イデオロギー論争の時代ではない。アメリカのリベラル派を代表する知識人アーサー・シュレージンガー(ハーバード大学元教授)は「いまや、民族的、人種的抗争が、現代の爆発的な議論を呼ぶ係争点として、イデオロギー面での抗争に取って代わるであろう」と、一九九二年に出した『アメリカの分裂』の中で指摘している。

 では、「民族的人種的抗争」のメインテーマは何か。「歴史観」である。シュレージンガー教授は、「武器としての歴史」という章を立てて、「歴史観」の重要性をこう語る。「記憶を失った個人が、どこにいたかどこへ行くかも分からずに、まごついて呆然とするのと同様に、自らの過去についての概念を持たぬ国民は、自分たちの現在を、そして将来をも処理することができなくなるだろう」。だからこそ民族的人種的抗争にあっては、「過去を解釈するものこそ未来を勝ち取るのだ」

 日本にとってポスト冷戦は、中国などとの民族的人種的抗争を意味し、その勝敗は経済成長の優劣とともに、歴史解釈権をどちらが握ったかで決まる。だからこそ中国共産党政府は、自国民に対して徹底した歴史教育を施す一方で、日本に対してなりふり構わず、靖国神社参拝の中止、東京裁判史観の固定化を要求してきているのである。

 現に中国共産党政府に「歴史解釈権」を握られて以来、日本は中国のGNPの実に三倍ものパワーを持ちながら、ODAという形で中国の軍事的台頭を支援させられ、いまやわが国のリーダーの条件さえ中国政府によって決められつつあるではないか。

 わが国の与野党の幹部たちもマスコミの大半も、自国の歴史解釈権をいとも簡単に中国共産党政府に譲り渡し、結果的に自分たちの「未来」を奪われてしまっている現実に気づいていない。歴史で譲っても経済繁栄を維持すれば勝利できるという冷戦時代の思考から抜け出せないでいるのである。

 しかし、いくら経済で勝利しても歴史観の戦いで敗北したら、ポスト冷戦を生き残っていくことはできない。そのことを恐らく本能的に理解しているからこそ世論は、小泉首相の靖国参拝を支持してきたに違いない。

 昭和二十八年、「戦犯」釈放を求める国会決議がなされていた

 歴史観の戦いにおける現在の焦点は、「A級戦犯」問題だ。中曽根康弘元首相は平成十八年四月十日、自民党の新人議員の勉強会で講演し、「私は分祀論者。神主が決断すれば出来る」と述べ、靖国神社側に「A級戦犯」の分祀を促した。

 同様の意見を民主党の小沢一郎代表を始め古賀誠元自民党幹事長、高村正彦元外相、与謝野馨金融・経済財政担当相ら与野党の幹部も述べているが、「合祀」をめぐる経緯を果たしてご存じなのだろうか。「戦犯」を合祀した責任は国にあるのであって、靖国神社にその責任を転嫁すべきではないからである。

 大原康男編著『靖国神社への呪縛を解く』(小学館文庫)や『世界がさばく東京裁判』(明成社)を踏まえつつ、合祀の経緯、つまり靖国神社に関わる戦後史を確認しておきたい。

 (1)占領軍によって国との公的な関係を絶たれた靖国神社は戦後、大東亜戦争の戦没者をどのように合祀するか、大きな難問にぶつかっていた。いくら民間の宗教法人になったとはいえ、靖国神社の恣意的な判断で、誰を合祀するかを決めるわけにはいかなかった。やはり国による一定の基準が必要であった。また実務的にも、百万人にのぼる戦没者の氏名・住所・戦死場所などを逐一調査することなど政府の協力なしには不可能であった。

 (2)そこで、「早く身内を靖国神社に合祀してほしい」という遺族の要望に応えるため、昭和二十年四月十九日、遺族援護行政を所管する厚生省引揚援護局長は「靖国神社合祀事務に関する協力について」と題する通知を発し、都道府県に対して合祀事務に協力するよう指示した。この通知によって合祀の選定基準を、原則として戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法とに置き、具体的な名簿の作成は厚生省・都道府県が担当し、合祀は靖国神社が行うことになったのである。

 (3)一方、昭和二十七年四月十八日に発効したサンフランシスコ講和条約第十条によって、それ以後も引き続いて服役しなければならない千百十四名の「戦犯」に国民の同情が集まり、その早期釈放を求める大国民運動が同年七月から起こり、最終的には約四千万人の署名が集まった。

 こうした世論の盛り上がりの中で、政府はまず巣鴨在所者の処理について関係国の許容を得る可能性の多い仮出所の勧告を行う方針のもとに、昭和二十七年(一九五二年)八月十一日までに二百三十二名の仮出所の勧告を行い、八月十五日、今度は巣鴨刑務所に服役中のB・C級戦犯全員八百十九名の赦免を関係各国に要請する勧告を行った。

 八月十九日には新木駐米大使がアリソン米国務次官補を訪問し、B・C級日本人戦犯釈放問題で再びアメリカ政府の好意的配慮を要請した。十月十一日には、立太子礼を機会に、国内および海外に抑留されているA級を含む全戦犯の赦免・減刑を関係各国に要請したのである。

 (4)国民世論や日本政府の動きと連動して国会の方でも昭和十八年八月一日、衆議院本会議で、次のような「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決され、政府に対して「わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国家親交のためにも、すみやかに(戦犯の早期釈放)問題の全面的解決を計る」よう求めたのである。

 八月十五日、九度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに十五箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。

 しかしながら、講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年八月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回ブイリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて、去る十日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。

 且又、来る八月八日には濠州マヌス島より百六十五名全部を迎えることは、衷心欣快に堪.えないと同時に、濠州政府に対し深甚の謝意を表するものである。かくて戦犯問題解決の途上に横たわつていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機を逸することなく、この際有効適切な処置が講じられなければ、受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。

 われわれは、この際関係各国に対してわが国の完全独立のためにも将又世界平和、国家親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。よつて政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する。右決議する。(「官報号外」昭和二十八年八月三日)

 
「戦犯」は国内法上の「犯罪人」ではない

 (5)同時に、一家の主を失って困窮を極めている「戦犯」の遺族たちへの援助問題が浮上した。「戦犯」の遺族たちにも弔慰金などの援助をするべきではないか、そのためには「戦犯被処刑者」を国内法上の「犯罪者」と見なすのではなく、公務で亡くなられた「公務死」と認定するべきではないか、という議論が起こった。

 昭和二十八年七月二十一日、衆議院厚生委員会において改進党の山下春江議員は、「戦犯で処刑されました方々を公務死にいたしたいというのは、大体国会における全部の意見のように考えるのでありますが(中略)外務省はどういうお考えをお持ちになりますか」と質問した。

 これに対し翌二十二日、広瀬節男外務省参事官は、「被処刑者の遺族の援護は、社会保障的見地から見ましてももつともなごとだと思いますし、国際関係上から見ましても支障ないものと認めまして、外務省としては何らこれに異議はございません。こういうことを省議決定いたしました」と答弁している。

 現在の風潮から考えれば、政府・外務省が、連合国の軍事裁判において「侵攻戦争を行なった戦争犯罪人」と断罪された人々を犯罪者ではなく、公務で亡くなった人と認定することは「国際関係上から見ても支障ないと認める」と"省議決定"の上で断言したことはまさに驚くべきことだ。

 「東京裁判による刑死は実質的"戦死"である」という立場に、当時は政府も国民も立っていたのである。遺族援護法改正に社会党は賛成しただけでなく、熱心にこれを支持した。堤ツルヨ衆議院議員(右派社会党)は衆議院厚生委員会で「処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに(註:既に成立している未帰還者留守家族援護法の適用を受けているという意味)、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。

 しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。・・・遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います」と述べている。この意見の前提に、「東京裁判は間違った裁判だった」という認識があることは言うまでもない。

 戦犯で処刑されました方々を公務死にいたしたいというのは、大体国会における全部の意見のように考えるのでありますが(中略)外務省はどういうお考えをお持ちになりますか」と質問した。これに対し翌二十二日、広瀬節男外務省参事官は、「被処刑者の遺族の援護は、社会保障的見地から見ましてももつともなごとだと思いますし、国際関係上から見ましても支障ないものと認めまして、外務省としては何らこれに異議はございません。

 こういうことを省議決定いたしました」と答弁している。現在の風潮から考えれば、政府・外務省が、連合国の軍事裁判において「侵攻戦争を行なった戦争犯罪人」と断罪された人々を犯罪者ではなく、公務で亡くなった人と認定することは「国際関係上から見ても支障ないと認める」と"省議決定"の上で断言したことはまさに驚くべきことだ。「東京裁判による刑死は実質的"戦死"である」という立場に、当時は政府も国民も立っていたのである。

 遺族援護法改正に社会党は賛成しただけでなく、熱心にこれを支持した。堤ツルヨ衆議院議員(右派社会党)は衆議院厚生委員会で「処刑されないで判決を受けて服役中の留守家族は、留守家族の対象になって保護されておるのに(註:既に成立している未帰還者留守家族援護法の適用を受けているという意味)、早く殺されたがために、国家の補償を留守家族が受けられない。

 しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日の遺族は非常に嘆いておられます。・・・・.遺族援護法の改正された中に、当然戦犯処刑、獄死された方々の遺族が扱われるのが当然であると思います」と述べている。この意見の前提に、「東京裁判は間違った裁判だった」という認識があることは言うまでもない。

 保守.革新を問わず国際社会に復帰した日本がまず行ったことが、戦犯釈放要求・戦犯遺族への年金受給という形での戦争裁判への異議申し立てであったことは、戦後日本の政治を考える上で、忘れてはならないことだろう。

 (6)ともかく、この外務省の答弁を踏まえて戦傷病者戦歿者遺族等援護法及び恩給法の改正が重ねられ、「戦犯」の遺族も遺族年金・弔意金・扶助料などが支給され、さらに受刑者本人に対する恩給も支給されるようになった。

 ちなみに「戦犯」刑死者の取り扱いについては、昭和三十三年六月十日付の厚生省引揚援護局の復員課長発の通達(復員第六百十三号 業務二 第1007号102)の中に、「法務関係死亡者とは、戦争裁判により、判決が確定し、これにより死亡、刑死または拘禁中の病死等をした者をさす」という一節があり、「法務死」として扱うことになった。

 (7)こうして戦傷病者戦没者遺族等援護法と恩給法が適用された「戦犯」も合祀の対象となり、昭和三十四年三月十日付「日本国との平和条約第十一条関係合祀者祭神名票送付について」(引揚援護局長通知)によって送付された祭神名票に基づいて最初の「戦犯」合祀がなされた。

 (8)「A級戦犯」として刑死または獄中病死した十四人については、昭和四十一年二月八日付「靖国神社未合祀戦争裁判関係死没者に関する祭神名票について」(引揚援護局調査課長通知)によって祭神名票が靖国神社に送付された。

 その後、昭和四十六年の靖国神社崇敬者総代会で了承され、昭和五十年、秋季例大祭前日の霊璽奉安祭で合祀された。一般に知られたのは翌五十四年四月十九日の新聞報道だが、その後も大平正芳首相は従前通り参拝している。

 以上のように、「戦犯」合祀は、国会決議と政府の判断を受けて法律に準拠して行われたものである。靖国神社が恣意的に合祀したわけではない。この判断は、毎年終戦記念日に日本武道館で営まれる「全国戦没者追悼式」にも適用され、「戦犯」も追悼の対象に含まれている。しかも、政府は平成十七年十月二十五日の閣議で、民主党の野田佳彦衆議院議員(平成二十三年、首相に就任)の質問主意書に答えて、「(極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した)刑は、わが国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と指摘、「戦犯」合祀を肯定する趣旨の答弁書を決定している。

 「合祀したのが間違いだ」と叫ぶ民主党の小沢一郎代表のように、あくまで「A級戦犯」の分祀つまり差別的扱いを靖国神社に要求するならば、まずその前に国会でこれまでの戦犯赦免の国会決議を否定した上で、「戦犯は国内法上も犯罪人である」旨の国会決議をするのが筋であろう。

 もっとも、実際にはそんな国会決議は不可能だ。なぜなら、「戦争裁判で有罪となった人は刑に服した後も永遠に名誉が剥奪され、国家としての追悼の対象から外す懲罰的措置を与える」という趣旨の法律は存在せず現行憲法第三十一条には「何人も法律の定める手続によらなければ(中略)その他の刑罰を科せられない」とあるからだ。半世紀も経た今頃になって何の法的根拠もなく、判決を受け刑に服した人々を「犯罪者」として扱うことは憲法違反だ。

 「富田宮内庁長官メモ」の政治利用は許されない

 この「分祀」問題で、平成十八年七月二十日朝、わが国に激震が走った。呆日本経済新聞が朝刊の一面トップで「A級戦犯 靖国合祀 昭和天皇が不快感」とする記事を掲載したからである。記事によれば、昭和六十三年、昭和天皇が「A級戦犯」合祀に不快肇抱かれ、「だから私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と語っていた、とする「メモ」を、当時の宮内庁長官の富田朝彦氏が残していたという。

 まず問題にしなければならないことは、宮内庁長官という重職にあった方がなぜこのような重大な内容について非公式の「メモ」を作り、それを手帳に貼り付けたまま放置していたのか、ということである。ご発言を政治利用されないよう、皇室をお守りするのも宮内庁の役割であるはずなのに、前に側近として立場上知りえた「非公式のこ発言」を記録し、勝手に公開することが許されるならば、誰が皇室をお守りするのか。

 「A級戦犯」分祀という自らの政治的主張を正当化するために、非公式のこ発言を政治利用するー部マスコミと、それに結果として協力した富田長官の関係者に対して強い憤りを感じずにはいられない。政府は、宮内庁関係者の守秘義務に関する対策を是非とも検討すべきである。

 同時に、「メモ」の内容については慎重に検討すべきであって、「『昭和天皇が参拝しなくなったのはA級戦犯合祀が原因ではないか』との見方が裏付けられた」(日本経済新聞平成十八年七月二十日付朝刊)などと速断すべきではない。

 少なくとも「戦犯」合祀に関して言えば、『木戸幸一日記』によると、昭和天皇が「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」(昭和二十年八月二+九日)、「(「A級戦犯」は)米国より見れぼ犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」(十二月十日)とおっしゃられている事実を踏まえて慎重に検討すべきである。

 また、合祀後も、春秋の例大祭に際して昭和天皇から勅使を戴いてきたことや、昭和天皇の弟宮である高松宮殿下や三笠宮殿下を始めとする皇族方がたびたびご参拝になっている事実も重く受け止められるべきである。昭和天皇が「A級戦犯」合祀に反対して参拝をとりやめられたのならば、合祀後も、皇族方がご参拝になられるはずがないからである。

 なお、「メモ」を受けて、靖国神社の松平永芳宮司が勝手に「A級戦犯」を合祀したかのような意見を述べる方がいるが、事実と異なる。靖国神社は、政府から送られてきた「名簿」に基づいて合祀される方のお名前を記した「上奏簿=じょうそうぼ」を作成し、それを宮中にお届けした後、合祀を行ってきているからである。ことは重大であるだけに慎重な検討が望まれる。

 国際社会で通用しないのは中国共産党の論理

 戦後わが国が、戦犯とされた人々を国内法上の犯罪人とみなさなかったとしても、その論理は「国際社会で通用しない」という奇妙な意見を述べる人もいる。確かに、法律よりも権力者の判断が優先される「人治国家」中国共産党政府や、半世紀以上も前に「親日派」だったという理由でその子孫の財産を没収する事後法を成立させる韓国政府には通用しないだろう。

 しかし、率直に言わせてもらえば、世界約二百力国のうち、首相の靖国参拝を正面から批判するこれら→力国の論理こそ国際社会では通用しない。特に中国共産党政府は国内で、キリスト教徒やイスラム教徒、法輪功の信者などを弾圧し、世界中から「信教の自由」を否定している専制国家として指弾されている。こんな中国共産党の言い分に同調する国などない。

 現に「日本が首相の靖国参拝のためにアジアで孤立したとか、信頼を失ったという説も事実に反する」として、ジェムズ・アワi兀アメリカ国防総省日本部長は、「この月、米国内でのアジアに関する国際会議でオーストラリア、インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、シンガポールの代表たちに日本の首相の靖国参拝が彼ら自身、あるいは彼らの国の政府にとって問題かどうかを質問したことがある。

 すると、インドネシアの元政府高官は『私たちにはまったく問題ではない。問題にするのは、中国だけだ』と答えた。他の国の代表たちもそれに異論を唱えなかった。米国のブッシュ政権も日本のリーダーたちの靖国参拝をまったく問題にしていない」と証言しているではないか(産経新聞平成十八年七月三日)。

 アメリカも内心では問題視しているとして朝日新聞は平成十八年四月二十日付朝刊で、ジョンズ・ホプキンズ大学ライシャワー東アジア研究所のケント・カルダー所長の「戦争を正当化することは、日本と戦った米国の歴史観と対立する。異なった歴史解釈のうえに安定した同盟は築けない」といった発言を紹介している。

 しかし、民主党系のカルダー氏の意見は、アメリカでは少数派に過ぎない。首相が靖国神社に参拝することが直ちに先の大戦を正当化することにはならないし、そもそも「戦争を正当化する」とはいかなることなのか、意味が不明だ。なお、カルダー氏は平成十七年七月、桜美林大学で行われた財団法人日中友好会館(つまり中国共産党の関係団体)後援の国際シンポジウム「近現代史における日中関係の再検討」に招かれ、王泰平・元駐大阪総領事らと懇談している。親中派はどこにでもいるものだ。

 「戦争責任」は国際法上も決着済み

 加藤紘一元自民党幹事長は『文藝春秋』平成十八年八月号で、靖国参拝に反対する理由として、「国際社会では『処刑は終わった。戦犯たちは亡くなったのだから、もうあの戦争に関する責任問題も終わり』というわけにはいかないのですLと語っているが、そこには、講和条約と「戦争責任」に対して根本的な誤解がある。

 そもそも講和条約とは、「戦争中にに一方の交戦国の側に立って違法行為をおかしたすべての者に、他方の交戦国が責任の免除を認める」(C・G・フエンウイック「国際法」法的効果を持っている。戦争が燃え立たせた国家間の憎悪の焔を鎮めるため、戦争犯罪を全面的に忘却し、もって国際社会の平和と安寧を維持しようというのが講和条約の主旨なのであり、国際法ではアムネステイ(大赦)条項と呼ばれる。

 簡単に言えば、講和条約の締結をもって政治的には戦争責任問題をすべて水に流そう、というのが国際慣行なのである。わが国はサンフランシスコ講和条約と関連の平和条約(日中平和友好条約も含む)を締結したことをもって、国際法上、戦争責任はすべて解決したのである。

 もちろん、学問ζして、戦犯とされた方々の功罪を論じることは自由である。その意味で、近隣諸国と実りある議論をするためにも、「日本人自身が戦争責任に対して、はっきりした歴史検証をしなければならない」(渡辺恒雄読売新聞社会長)と思うが、そのためには、次の三点の確認が必要だ。・

 第一に、戦争責任問題について「学問的に論議すること」と、国内法上犯罪人でない方々を追悼の対象から外すといつ行政措置」とを混同すべきではない。たとえA級戦犯とされた方の「戦争責任」が改めて確認されたとしても、それをもって刑法上の「犯罪者」と決めつけ、国家としての追悼の対象から外すという行政措置へ飛躍すべきではない。

 讐えが適切ではないが、北朝鮮の拉致問題に対する社民党や一部自民党の国会議員の対応はまさに犯罪的だと思うし、その責任は徹底的に追及されるべきだが、刑法上の「犯罪」ではない以上、それら議員の名誉剥奪や議員年金支給停止はすべきではないということである。それが法治国家というものだ。

 第二に、戦争責任を、日本の指導者だけに追及するという自閉的な姿勢とは決別すべきである。むしろこれから必要とされるのは、東京裁判で不問に付ざれた、旧ソ連やアメリカのルーズヴェルト政権、そして中国共産党の戦争責任を国際的な視野から検証・追及することであろう。

 第三に、前述したように、政治的には、わが国の戦争責任は、戦争裁判とその被告に対する刑の執行及び講和条約と関連条約(賠償を含む)によって決着している事実を踏まえるべきであるということである。外務省を経て中央大学法学部教授となった田村幸策著『太平洋戦争外交史』(鹿島研究所出版会)によると、敗戦国のイタリア、フィンランド、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアとの平和条約には、「ヒットラー・ドイツの同盟国になり、ドイツに加担して、連合国と戦争した責任を分担せねばならない」という「戦争責任」規定がある。

 しかし対日講和条約には、戦争責任に対する規定がない。その理由は、講和条約締結以前、既に東京裁判とその関連裁判において、日本は「侵略戦 (Aggressive War)」を行ったとの判決を受け責任者が処罰されているからだという。

 わが国は、連合国側による杜撰な「復讐裁判」によって千人を超える同胞が「戦争犯罪人」として処刑された。同胞の血によって日本は「戦争責任」に決着をつけた、とみなされたのである。具体例を紹介しよう。「A級戦犯」として終身禁固刑となった賀屋興宣氏(後に法相)は昭和三十年に巣鴨刑務所から釈放された後、昭和三十二年頃、アメリカ政府から東南アジアの開発について意見を求められアメリカ大使館に出向き、国務省の局長部長、参事官らに説明した。

 その際、賀屋氏が衆議院議員選挙に出ることを知っていたアメリカの参次官から菲常に大きな権限をもつ総理大臣になって、大いに国家と国民のために、よいことができるのではないか」と激励されている。

 講和条約締結後は、たとえ「A級戦犯」が国会議員や首相となったとしても何ら問題ではないというのが、アメリカ政府の立場だったのだ。このように、靖国神社への「戦犯合祀」も含め日本の「戦争責任」処理は、国際社会からも支持を得てきた。戦後史に対して我々はもっと自信を持っていい。

 松平永芳宮司の「絶対に譲れない三本柱」

 靖国神社の国家護持及び非宗教法人化についても言及しておきたい。日本遺族会会長の古賀誠自民党元幹事長は平成十八年六月二十一日、国家護持という大きな旗を遺族会としてもう一度掲げてみたい」と述べた。また、麻生太郎外相は六月二十二日、「アジア戦略研究会」(会長・逢沢一郎幹事長代理)で講演し、「国がきちんとした形でやるべきことを一宗教法人にずっとわたしていたのが問題だ」と述べ、靖国神社を非宗教法人にすることが望ましいとの考えを表明した。

 靖国神社と国との関係を何らかの形で再構築したいという二人の意図には」共鳴できるものの、昭和三十年代から四十年代における「靖国神社国家護持」運動史を踏まえれば、とても賛成できるものではない。

 麻生外相が唱えた非宗教法人化論の先駆けは旧社会党で、昭和十年一月、「靖国平和堂(仮称)に関する法律草案要綱」を発表している。その内容は、

 @神社の名をさけて靖国平和堂(仮称)とする、

 A祭典を廃止し、式典を行う、

 B社殿の建築を改めて神社の印象をなくする、

 C鳥居をなくす、

 D奉仕している神職はすべて罷免するーというものだ


 非宗教法人化とは、靖国神社を単なる記念碑にしてしまうことだ。自民党の「国家護持法案」でも、憲法の政教分離条項との関係から、

 @国家として「靖国神社」の名称を使用するかどうか、

 A国家として英霊を神道祭祀で祀るか否か
ーが論争となった。そして昭和四十四年五月、自民党案は「第一条 靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、これを慰め、その功績をたたえる行事等を行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする。」という表現でまとまったが、神道祭祀については曖昧な表現となった。

 以後、昭和四十四年から昭和四十九年まで六回にわたって法案は提出されたが、野党・社会党を説得できず、廃案を繰り返した。しかし致命的だったのは、野党の反対ではなかった。昭和四十九年五月、衆議院法制局が自民党に提示した「靖国神社法案の合憲性」によれば、靖国神社法が成立すると、祝詞、降神の儀、修祓、礼拍手拝、神職の名称の廃止など祭祀が大きく改変を迫られることが判明したのである。

 このため昭和五十年、国家護持運動は中止となった。以上のように、現行憲法下での国家護持及び非宗教法人化は、鳥居などを撤去され、日々の祭祀も行わない、魂なきモニユメントと化すことを意味していた。その貴重な教訓を踏まえ、靖国神社の松平永芳宮司は昭和五十六年、将来の国家護持に際しては、

 @神道の祭式で御霊をお慰めする、

 A(鳥居や神殿など)一連の神社のただずまいを変えない、

 B明治天皇御命名の「別格官幣社靖國
神社」という社名は変えなーという「絶対に譲れない三本柱」を認めるものでなければならないと明言している。

 国家護持は、以上のような靖国神社法案をめぐる歴史を踏まえ、靖国神社の「三本柱」を認めたものでなければならない。つまり、日本の祭祀の伝統を認める、緩やかな政教分離へと憲法を改正したあとに検討すべきなのである。

 なお、超党派議連「国立追悼施設を考える会」(会長、山崎拓前自民党副総裁)は平成十八年六月十五日、戦争による敵味方の「死歿者」を対象にした無宗教の国立追悼施設の新設を政府に求める中間報告をまとめた。

 しかし、この国立追悼施設は無宗教のため、魂や霊が存在しない。しかも、横田めぐみさんらを拉致した北朝鮮の工作員も追悼の対象となる。そのような施設を国費で作っていいのか。日本遺族会は平成十四年、正式に反対を表明しているし、公明党の神崎武法代表も平成十八年月八日のNHKで、追悼施設を新設しても「靖国問題の解決になるかというと、必ずしもならない」と告白している。

 国費の無駄遣いはやめるべきだ。関連して自民党が平成十八年七月七日、「千鳥ケ淵戦没者墓苑の整備に関するプロジェクトチーム」(武見敬三座長)を結成したことを受けて、千鳥ケ淵戦没者墓苑を「事実上の国立追悼施設と位置づけるのであれば、一歩前進だ」(公明党の神崎代表)という声もあがっている。

 しかし、千鳥ケ淵戦没者墓苑は「日中戦争以降の戦死者のうち、身元の分からない遺骨や、身元が分かっていても遺族が不明で弓き取り手のいない遺骨約三十五万体が安置されている」遺骨安置所だ。幕末から日清・日露戦争、第一次世界大戦などの戦没者とは無関係であるし、慰霊施設である靖国神社とは全く性格が異なる。

 靖国神社の代わりにはなり得ない。政府が今なすべきことは、人治国家「中国共産党政府」の内政干渉にうろたえて、「戦犯」分祀という人権侵害や、国立追悼施設の建設という国費の無駄遣いをすることではないはずだ。

 国際法と国会決議、国会審議に基づいて行ってきた「戦犯」合祀の経緯や「戦争責任」問題についての戦後史をまず自身がきちんと理解した上で、内外に粘り強く発信するとともに、民営であっても靖国神社には公的意義があることを認め、堂々と参拝を続けることであるはずである。

 ポスト冷戦の主戦場である「歴史観」の抗争で、敗北することは許されない。(初出『正論』平成十八年九月号「『富田元宮内庁長官メモ』の政治利用は許されない」改題)