友情
思えば私は人間嫌悪を長く心の奥底に秘めて今日まできた。それは私の生い立ちの環境から生まれてきたものであろうか。いけないとと自省自戒しながらも人間嫌悪の情を捨て去ることはできなかった。人間の好意を率直に受け入れられない自分のふがいなさには、時として、みずから腹立たしさを覚えることもたびたびあった。
しかし、そのような私に、近年人間としての真の友愛の手をさしのべ、教えてくれた何人かの
人びとがあらわれてきた。私はこの人びとから人間としての広がりと深みの世界を教えられた。
この本を世に送りだすことについても、私はためらいつづけた。どうしても気がすすまなかった。その気のすすまぬものを決心させて〈れたのは、じつは人間のあたたかみと友情によっての
ことであった。
原稿を書きはじめて一年有余の月日がすぎてしまった。日々、原稿用紙のます目をうめていくペン先は、時としてはたと止まってなんとしても進まないことがあった。厳寒の深夜、ひとり起きでて速い過去をきのうのように心にえがきだすのだった。
これを勇気づけ叱咤激励してくださった講談社学芸第二部の加藤勝久部長はじめ皆さまのご支援と、何かと鞭撻してくださった玉上統一郎、千吉良進作、久保田千恵子、須藤素男の諸氏と、 そのご家族の方がたのご助力を忘れることができない。
もし、この一冊の本が、読者のみなさまの何らかのお役に立つところがあるとするならば、人 間としての友情を、身をもって与えてくださった多〈の方がたのおかげにほかならない。岩宿の発見−それは私のつたない歩みのひとこまであった。それから今日まで、私は私なりの夢を追い求め歩みつづけてきた。この長い旅路はなおこれからもつづくであろう。 いつの日か、孤独な私の心にともしびをかかげてくれ、いらい、私の座右の銘としている詩がある。
生涯身を立つるに懶(ものう)く
騰々(とうとう)天真に任(まか)す
嚢中(のうちゆう)三升の米
櫨辺(ろへん)一束の薪(たきぎ)
誰か問わん迷悟の跡
何ぞ知らん名利の塵
夜雨草庵の裡(うち)
等間に双脚(そうきやく)伸ばす
良寛の作詩といわれる。心荒れる夜など、この詩を口ずさんでいると心休まる。 私の歩みはいまも、どこかに遺されたはずの祖先の一家団らんの場を求めている。その指標するところ、求めてやまないまぼろしの日本原人の姿が浮かびあがってくるのである。 いまとなってふりかえってみれば、この一冊に記した岩宿遺跡の発見は、私の今日の歩みへの
序章ともいえるものであった。
昭和四十三年十二月
相沢忠洋
|