日本人に欠ける理性の愛、 作家 曽野綾子(情報源:産経新聞H21.7.4 昭和正論座) ★微妙な「愛」の4つの形態 日本語には、しばしぱ、外国語にはない繊細な表現があって、私たちは充分にその恩恵に浴しているが、一方で又、日本語には、物事の本質に対して、いささか荒っぽいと思われる面がないでもない。その一つは「愛」という言葉についてである。ギリシャ語には、英語にもない、微妙な「愛」の四つの形態をあらわす言葉があるという。 第一は、ストルゲーで、これは家族の愛をあらわす言葉である。ある親が子に、或いは子が親に、又は兄弟姉妹が相互に感じる愛情である。これは、いかなる動物も一時期には持つ、まことに原始的な、しかしそれだけに安定のいい、素朴な感情である。 第二がエロースで、これは男女間の性愛を示す。これはお返しを期待する愛である。日本語にすれば同じ愛という言葉になるが、このエロースは、新約聖書に出て来ないようである。 第三はフィリアで、これはたとえば、友情などに見出されるような最も真実で、自然な、優しい愛情である。これも少しも無理がない。相手が好きだか優しくするのである。 ★相手の感謝期待できない ところでへ日本人の概念の中にある愛というのは、恐らくこの第三の分類に入るものまでなのである。しかし問題は、第四の愛で、それがアガペーと言われ、「くじくことのできない慈悲、打ち破ることのできない善意」を意味するという。第三までの愛は、いわば感情の移入が簡単に行われ得るものである。子供はかわいいし、恋人は好きで好きでたまらない。親しい友人に親愛感を持つのも、水が低きにつくように自然である。 ところが、聖書の中にある「敵をおのれの如く愛する」という部分は、この四段階の区別ができない日本語のために、不当にかいかぶられたり、嫌われたりして来た。敵、すなわち憎んでいる相手を自分と同じように愛するなんて、なんて立派なことでしょう、と言われるか、だからクリスチャンは嘘つきでいやさ、とエセ道徳家扱いにされるか、どちらかだったのである。 キリストがその際言ったのは、アガペーの愛であった。敵が好きになって愛せよと言ったのではない。意志をもって、自然の情に反しても、理性の愛を持てと言ったのである。アガペーの愛には、更に辛い結果が待ち受けている。アガペーの愛に限り、相手から感謝されることを期待できない。それだけではなく、侮辱され、いやがらせを受けることさえある。 それでも相手に対して憎しみを持つことなく、「くじかれることのない慈悲と善意」をもって、相手のために、一番いいことをしようとする。キリスト教における、真の意味の愛は、このアガペーの愛をおいて他にはない。 ところで、ながながとこんなことを書いたのは、決して道徳論を展開しようとしたからではない。去年一年の間に、私は何度か、日本人の発想には、アガペー的な愛、憎みながらでも愛することが可能であるという姿勢がないのではないかと思われる場面にぶつかったからである。 ★嫌いだ」では済ませるな その一つは、サンケィ新聞に連載した「アラブのこころ」を取材中に、或る大新聞の特派員と会った時のことである。よく海外の日本人で、その国の人間も、風土も、食物も、一切が嫌いだと言っている人に会うことがあるが、この人は、それから見れば、よく土地にとけこみ、勉強もし、本当に立派な人物というべきであった。しかし、その人が非情な親アラブ派であるあまり、「僕は、イスラエルってきらいですねえ。イスラエルはまだ行ったことありませんけど、見たくもないですねえ」というのを聞いた時、正直に言って、私が慄然としたことも本当なのである。 この態度は、ビジネスマンなら、なんとか通るかもしれない。しかし、こういう姿勢で書かれた記事を我々が読まされているとしたら、恐らく公正な知る権利なぞ、望むべくもない。もちろん新聞記者も人間だから個人的に「何となく」どちらかが、「虫の好かない」こともあろう。「人道的に許せない」と思うこともあろう。しかし、それらはいずれも両方の側から冷静な調査をした上で言わねばならないことである。 それどころか嫌いだと自覚した対象ができたら、なお一層、それを理解するために努力するぐらいの軌道修正の努力があってもいいと思うのである。日本人は、人がいいのであろうか、相手を理解するには、相手を愛さねぱならない、ということを、百%その立場に同感しなければならない、というふうに考える場合が多いのではないかと思う。そのような好意は前の四段階法によると、フイリアに当り、どちらかというと、その方が楽なのである。 しかし、相手のやることが気にくわなかろうが、立場を認めることができなかろうが、なお愛というものがある筈であって、それこそが、この複雑な人間関係や国際関係の、本当の地道な理解に役立つと思われるのである。 ★現実の姿のまま受け入れよ もう一つは、本誌で、かつて私は中国の憲法を紹介した(昭和五十年八月号)。たとえば「全国人民代表大会は、中国共産党の指導下にある国家権力の最高機関である」というような事実について述べたのである。私流の言葉で言えぱ、中国共産党は実に大きな偉大な組織で、日本で言うと国会に当る全人代さえも、その指導下におかれる、ということなのである。これは、憲法に明記されている事実であって、そのことじたいは、いいこととか、悪いこととか言うべきではない。 しかるに、私の文章を読んで、怒った日本人がいたのである。この人は、親中国派らしいから、私はなおさら驚いたのである。私はむしろ真の中国の姿を僅かでも紹介したということで(感謝されるというほどのことはないが怒られる筋合いはどこにもない。恐らくこの人は、自分の考えている中国像と、私の紹介した中国の憲法から考えられる中国像とが、違うので腹を立てたのである。 もし本当に、或る人が、中国を、アラブを愛するなら、現実にこれらの国が自分の好みとどれほど違っていようと、そのままの姿で相手を受け入れることができる筈なのである。(そのあやこ) 【視点】ギリシャ語の「愛」には、英語にもない微妙な4つの表現があると曽野綾子さんはいう。家族愛、性愛、友情のような 自然な愛、そして、4つ目がアガペーという敵を愛する理性愛だそうだ。日本人は感性にかかわる3つの愛は持ち合わせても、 「汝の敵を愛せ」のアガペーがどうも苦手らしい。新聞記者は取材相手が嫌いでも理性で懐に飛び込み、事実に肉薄しな ければならない。とくに外交は「祖国のためにウソをつく愛国芸」(ビアス)だからなおさらだ。中国、北朝鮮がいかに腹 黒い外交であっても、顔を背けずそれを暴かなけれぱ、問題点すら浮かび上がらない。記者には耳の痛い論稿である。(湯) |