その2
生も死も人間の大事な儀式ですが、何か忘れたものがあるように思えます。家族が心こめて葬式を出そうと決めました。マンガの『ちぴまる子ちゃん』のおじいさんは、孫の小遣いをまきあげるような人でしたが、ある日、「明日死ぬ」といって朝に死んでいたという大往生の話を聞きました。そんな死に方はいいなあと、かねがね思っていました。ところが実際には、その場に医師が居ないと不自然死になり、検死が必要になることを今度知りました。その上、不信の疑いをもたれると解剖になると聞きました。警察は仕事柄、自宅にきて死んだ現場を検証しました。
いつしか、街の家々から老人がいなくなっています。病院か、老人ホームに入れられていることを思いました。やがて死とともに裏門から葬儀社の会葬所に遺体が運ばれ、流れ作業のようにお通夜、葬儀、火葬場とセレモニーが始まるのです。本人が家に帰りたいと願っても叶わず、葬儀産業が墓場まで仕切るようになっていることを知りました。いま、互助会や墓苑の倒産を耳にしますが、死んでからもおちおちしていられない世の中です。なによりも家族の絆が大事なことを考えさせられました。
ギリシア生まれの英国人ラフカディオハ−ン、後の小泉八雲は、明治23年(1890)来日して松江中学に赴任し、小泉節子と結婚しました。彼は日本文化・風土を愛し、そのなかに野辺の送りに感動をしたことが記されています。以前は、「簾に忌中」の紙を張った家々を見かけましたが、見られなくなりました。家々から弔いを出すのが当然であったのが、いつしかその風景は消えてしました。
お通夜から腰が痛くなりました。会葬がおわった翌日、全国−の宮巡拝会中部ブロックの名古屋での集まりに、日帰りでいきました。名古屋から帰った翌日、子どもたちが病院で見てもらえというので東京医
科歯科大市川総合病院に参り末した。結果は第三脊椎が潰れているということでコルセットを造り、以来安静にしています。そのお陰で49日間は、朝夕線香とお経を称えて供養することができました。3月2日、同病院で再びレントゲンを撮り、診察を受けましたところ、骨折した脊稚が良い状態で回復していると、医師が驚いていました。このままコルセットをしていれば、5月の連休には良くなるとお墨付きをいただきました。まさに神仏のご加護の賜と存じます。
人が死んだあと四十九日、その家の棟に霊は留まっているといいます。チベットの『死者の書』には、そのことが記されています。四十九日というのは、釈尊が菩提樹のもとで瞑想し、誘惑と妨害を退け、悟りをひらいてブッダ(仏)になった修行の期間をいいます。勿論、普通の人はブッダにはなれませんが、娑婆から脱出する修行をしている期間といいます。幸い多くの方々から花を贈られ、花の中で修行することが出来ました。お線香をあげ、お経を称えるのは、何よりも死者へは励ましになるといいます。四十九日朝夕、勤行をつづけ、安らかに仏界への修行へ旅立つ日、3月7日、恵浄院清室妙豊大柿の四十九日法要
と納骨の儀を三人の子、七人の孫、親族で無事終え、霊界の修行に入りました。納骨は身近のもので和やかに送りました。
夫婦とは不思議なものです。昨日までアカの他人が結婚して死ぬまで共に生活をします。最近はそれがおかしくなっているところが問題です。夫婦は、お互いのDNAを子に伝え、そのDNAが先祖に繋がっているのです。神道では祖先神崇拝・仏教では先祖供養を大事にするのは、この仕組みが先人はわかっているからです。仏教で因果の法といって原因、結果を知っているからで、その間は、縁によってつながっていました。神道は理屈ではなく神様のもとに参拝し、神様に感謝することですべてが清浄になります。四十九日の間、安静にしているとともに半藤一利さんの『昭和史11926−1945』(平凡社・1600円税別)
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