日本がだんだん消えようとしています。
入江 孝一郎
この度、故入江豊子の葬儀に、遠方からご会葬ならびにお志をいただきお礼申し上げます。また、四十九日の間に市川の自宅まで訪ねてきていただき、ご厚情本当にありがとうございます。家内の葬儀から四十九日の間、皆さまの暖かい気持に感謝申し上げるとともに、さまざまな事が思い出され、そのため長くなりましたことをお許し下さい。
昭和24年10月に結婚して、現在の所に所帯をもってから55年間の歳月が過ぎました。敗戦後の混乱からようやく日本が上を向き始めようとした頃でした。さまざまなドラマが展開し、その中で精一杯生きてきました。
昭和27年、朝鮮戦争が始まったとき・肺結核と診断され、肋骨6本をとる手術をうけました。長男が1歳のときでした。2年間の療養所生活を終えて、昭和29年・再び「移動教室」の活動を始めて今日になりました。 今日まで、永くもあり、短くも思える人生で、過ぎてしまえば、アツという間の時間の積み重ねなのかも知れませんが、紳仏の見えない力に導かれて、それぞれが存在しているようです。アイヌ人やオーストラリアの先住民は「すべて生きるものは、何か役割をもっている」と言い伝えてきました。自然と向き合って生活している彼等は、直感的なものをもっていると教えられます。生きるものがそれぞれに、何か役割ががあるからこそ尊いのです。
昭和30年から風邪を引いても薬を飲まず、家内は病気という病気もなく、入院することもなく過ごしてきました。昭和50年から10年間、二人で玄米菜食の食生活をし、自分の体で試して生きてきました。そして自宅で78歳の生涯を閉じました。ただ2年前から転んで歩行が困難になり、介護保険のお世話を受けるようになりましたが、それでも訓練して散歩に行けるようになりました。食事は美味しく、血色はいいとヘルパーに言われるほどでした。
死は突然に来るものですが、それは神仏のお導きによるものであることを悟れるような気持になりました。平成4年父の法事で夫婦揃って戒名をいただき、昨年11月17日アメリカの両忘庵USA大木宗完老師がオレゴン窯で焼いた般若心経の入った創作の骨壷を、二人の分を焼いていただき、床の間に飾りました。
戒名「恵浄院溝室妙豊大姉」と骨壷が、自然に準備される結果になりました。死の前々日には次男が風呂に入れ、前日に昼間室内で転び歩行が困難になりました。立てないのでテーブルの前に座ってしまい、私が立たせようと踏ん張ったときに腰を痛めたようです。
翌早朝、よく寝ているので次男がトイレに連れていくのを待っているうちに、何か息が細くなっているので、慌てて救急車に連絡をし、電話の指示で人工呼吸をしました。やがて救急車が来て、東京医歯科大市川総合病院救急病棟に運ばれ当直医の診断を受けてから、平成16年1月20日午前7時20分、息を引取つたと言われました。救急隊員から警察の検死が必要と聞かされ、午前8時に検死官がきました。
やがて霊安室に運ばれ、ここで般若心経をとなえ供養をいたしました。看護婦さんから葬儀社を聞かれて一任しました。すぐに葬儀社が来て今後の打ち合わせとなり、先ず遺体が自宅に帰ってからと、葬儀社の車で帰宅して安置しました。安堵したのか、死の化粧をしなくても美しく安らかな顔をしていて、私には心配 しないで」と言っているようでした。 家族が揃って子も孫も家から死出の旅立ちをと、皆の心が−つになりました。葬儀社と打ち合わせのとき、会葬者の挨拶文やお浄の塩のことになりました。挨拶文は自分がつくり、お浄の塩も自然塩で、子と
孫の手作りにしました。香典のお返しを聞かれたので、御茶や敷布をお返しするより、何か役に立つところに寄付することにしました。
|