わたしの心のふるさと 長崎県壱岐
                
青春の思い出や体験・・・やがて血となり肉となり 
                                       九州電力 副社長  豊島令隆 

 母は、母であり、かつ中学では私の英語と数学の先生でもあった。島の西、とりわけ夕焼け時が絶景の海に臨む沼津は、そんな小さ な地区だった。同じく教師の父や赴任先のこの壱岐の自然に抱かれて生涯を閉じた。

   当時の壱岐は、島全体の人口が5万人程度で、衣頚や学用品は別にして、日常必需品のほとんどを自給できる、自然豊かな島であっ  た。ほとんどの家庭が野菜を自家栽培し、ニワトリを飼っていた。田植え、稲刈り、麦踏み、麦刈りの農繁期ともなると、小、中学生  も農事の手伝いをした。もちろん学校が全員に1週間ほどの休暇を与えてのことである。 私は祖父を手伝った。1年分の薪割りは私の役目だし、自分のワラぞうりは自分で作り、いろんな遊びに使う竹かごも編んだ。

  夏休みは1日中海遊びで、ひと夏で背中の皮は3度もむけた。釣り竿は竹を切って、火にあぶって直っすぐに伸ばした手製である。 海藻、アワビ、サザエ、ウニ…言うに及ばない。だから「生きる」手段に、さほどの恐れを感じない。「自分でつくり、自分で食べる」  生活を送ったせいであろう。壱岐高入学は昭和28年。自転車通学だった。島内を走るバスは朝夕1回ずつとあって、私たちにとっては自転車が最高のマイカーである。4里4方、島のどこへ行くにも自転車があれば不便ではなかったし、多くの人は自分の足を頼りにしたものである。

   中学から高校へ進学するのは、2割程度で、あとは家業を継ぐか、都会に出たり、大工や左官になったりする時代である。戦後のわが国経済の成長を支えたのは、農漁村から都会へ出ていった勤勉な若者たちである。壱岐高は1学年200人強であったが、同窓生のほとんどは壱岐を離れていった。私もその1人である。壱岐高の建つあたりを「喜応寺ケ丘」という。ここに立つ機会は、もうほとんどないが、青春の思い出や体験は強烈であり、知らず知らずのうちに、血や肉となり、惑いは思想の一部も形成する基盤となっている。
(Zaikai Kyushu/JUN2001)

昭和28年('53)新校舎に入学、昭和31年('56)卒業・・・・・平成18年('06)50年ぶりに新装落成している

喜応寺ガ丘からみた
サンセットたそがれ=古希??!!)