全日本青年弁論太会 テ-マ「私が変える日本の将来」
青年たちが将来の夢を語る第26回土光杯全日本青年弁論大会(フジサンケイグループ主催、積水ハウス特別協賛)は9日に東京・大手町のサンケイプラザホールで開かれた。「私が変える日本の将来」をテーマに14人が熱弁をふるった。いずれも優秀なへ弁士、ぞろいとあって、審査も難航した。そのなかから見事選ばれた最優秀賞の土光杯、優秀賞、(産経新聞社杯、フジテレビ杯、ニッポン放送杯)の4人の主張の要旨を紹介する。
国民とのきずな伝えたい
平成17年、皇室典範の改定をめぐる議論が盛んに行われていた。連日のニュースに触発され、当時大学3年だった私も皇室の伝統にかかわる本を読んだ。和気清麻呂や大東亜戦争時の国民が皇室を守るために命をかけたという歴史から、皇室は大切なものであることを知った。しかし、戦後教育で皇室とは何かを教えられずに育ったため、そこまでして守られる皇室がどのようなものなのか、よくわからずにいた。
宮内庁のホームページには大変忙しいお勤めの様子が書かれており、驚きを隠せなかった。陛下の強いご希望で全国47都道府県すべてをご訪問になられた。どうして陛下はここまでされるのだろうかという疑問がおこってきた。
大学生の後輩と議論する中で、訪問先でごらんになられたものを実際に見ること、お言葉をたまわった方々に話を伺うことで、皇室とは何かに対する自分たちなりの回答を持つことができるのではないか。平成20年から2年をかけて全国55カ所での取材活動に取りかかった。
印象深かったのは沖縄県でのことだ。陛下が皇太子時代に最初に沖縄を訪問された昭和50年は、反戦を叫ぶ過激派の動きが盛んだった。しかし陛下は石くらい投げられてもよいとの覚悟で南部戦跡を訪問になり、黙?をささげられた。予定時間を超えてまで遺族とお話しになられた。
沖縄戦の組織的戦闘が終結した6月23日は、沖縄県主催の追悼式が開催される。その前夜祭に参列していた遺族の方は「わざわざ勉強して詠んでくださった琉歌から、沖縄に対する強い気持ちを感じる」と感激を語ってくださった。陛下の並々ならぬご努力によって、信頼のきずなを生み出しているといえる。
しかし、これは沖縄に限った話ではない。奄美大島の人々や襟裳岬の漁師、大規模自然災害の被災者たちと陛下の間も、やはり強い信頼のきずなで結ばれていた。陛下は私たちが知らないところで、全国の国民の苦しみをお受け止めになり、立ち上がる勇気を与えてこられた。
皇室によってわが国が守られているという事実と、これからも永きにわたってわが国を持続、発展させていくためには、皇室の役割を正しく理解することが大切であるということをひとりでも多くの人々に伝えていくことが、私の使命だと思っている。
全日本学生文化会議 三荻祥さん(25)みつおぎさき
第25回土光杯全日本学生弁論大会 テーマ「私ががやること」
平成21年(2009年)1月22日 木曜日
10日に東京・大手町のサンケイプラザホールで開かれた第25回土光杯全日本学生弁論大会(フジサンケイグループ主催、日本航空後援)は、論文審査で選ばれた12人の学生が「私がやること」をテーマに熱弁をふるった。最優秀賞の土光杯と優秀賞(産経新聞社杯、フジテレビ杯、ニッポン放送杯)に輝いた4人の主張の要旨を紹介する。
審査委鼻長講評 出てきた「和魂」
受賞された方、自信と誇りをもって、ますます実力をつけてこの日本を持ち上げる力になってほしい。土光敏夫氏は若い日本人の力に期待すると語った。皿木喜久・産経新聞論説委員長は大会あいさつで和魂洋才という話をした。今回の論文では、和魂が出てきた。日本人の魂は腐ってはいなかった。まだまだ日本は頑張れるぞ、と思った。
内容については、身近なところから述べられた大変感動的な発表があった。その身近な経験をもう一段階抽象化して普遍的なところにもっていく話が足りなかった。逆に日本国家の根幹をつくれ、という高尚な議論には具体例が少なかった。 米国の言語学でいう「抽象の階段」では、言葉は具体的なものから抽象的なものヘビラミッドの階段のように上がっていく。この階段を自由に上り下りできる人が「考えられる人」であり「言える人」。日本は同年齢の人を集めて教育しているせいもあり、年上の人と年下の人、上下の概念をつなぐ力が衰えている。こういうイベントを通じて、その点に目覚めてほしい。社会貢献支援財団会長 日下公人
自分の力で未来を 日本航空社長 西松 遥
政治・経済・環境、いずれの分野においても、世界はひとつであるということを実感しない日はありません。 国民ひとりひとりの倫理観も問われている今日、自国の優れた点も理解した上で、自分の目と耳で直接世界を体験し、自分の言葉で語ることが大事です。
世界の経済情勢が大きく変動するなど、さまざまな課題が山積している中でも、自分たちの力で未来を切り開いていかなくてはなりません。 未来を担う若い方々には、真撃に物事を見つめ、海外に大きく夢を広ば、可能性に果敢にチャレンジしていただきたいと思います。
私どもJALグループも、皆様の国際社会への飛躍のお手伝いをさせていただくとともに、交流の時代である21世紀の旅行・観光・輸送を支える企業の一員として、お客さま・文化、そしてこころを結び、日本と世界の平和と繁栄に責献してまいります。
土光杯
食べ物大切にする国に 江戸川大学社会学部4年 加納枝里子(22)
近年、消費者やマスコミは 「食の安心・安全」にとても敏感だ。コンビニやスーパーでは賞味期限などがくる前に、店頭から商品を撤去する独自の「販売期限」がある。期限が過ぎた瞬間、ゴミのレッテルが張られてしまう。
食料自給率39%と主要先進国のなかで最低水準の日本。世界で一番農産物を輸入しているのに、−年間の食品廃棄物は約2000万トン。これは国連世界食糧計画(WFP)が世界の約8800万人に行った食料援助の5倍だ。 もったいない。食べ物には幸福と安心と温かさをもたらしてくれる力があるのに。高校3年の秋、故郷の新潟県で体験した新潟県中越地震。余震の中、庭でバーベキューをした。食べ物を口にした瞬間、緊張が解け、安心感が生まれていた。
廃棄される食品を必要としている人たちに分けられないか。そんな時、まだ食べられるのに捨てられる食品を企業から受け取り、困っている人たちに無料で届けるフードバンクという活動を知った。 NPO法人「セカンドハーベスト・ジャパン」の活動に参加した。スーパーで受け取った食品に賞味期限・消費期限切れは一切なかった。期限が迫っていたり、形が少し崩れているために消費者が手に取らない商品ばかりだ。
食べ物の無駄を減らす努力は簡単だ。私は今までスーパーで賞味期限・消費期限が遠いものを選んでいた。しかし一日や2日で食べきれるものに期限は関係ない。私は期限が近いものを選ぶようになった。埼玉県三郷市のパン工場に隣接されたアウトレットベーカリーでは、形が崩れて商品化できないパンが安く売られている。本来なら捨てられる菓子パンやパンの耳は、私の大事な主食となっている。 きれいなものを、安全なものを求めるのは、消費者として当然。口に入れるものだからこそ、不適切な状態は許されない。だが、今の日本はあまりにヒステリックではないか。日本には「もったいない」の精神があった。今はエコ活動に使われているが、食べ物を無駄にしない気持ちも大切にすべきだ。
故郷にはいまだフードバンクが組織されていない。これまでの体験を踏まえ、”米どころ新潟”の地の利を生かしたフードバンクを立ち上げたい。そして、運動を全国に広げ、「食べ物を大切にする国ニッポン」を実現したい。そのために、小さくても堅実な力になりたいと考えている。
産経新聞社杯
「勇気凛々」の言葉を胸に 加賀芙遥香さん(20) 成城大学 文芸学部3年
勇気凛々。小学校教師の父の千の墓碑に刻まれている言葉だ。父は3年前、過労で亡くなった。労災認定を受けるため、職場での父の様子を調べはじめた。それまで家庭を顧みない仕事人間だとばかり思っていた。だが、父の同僚、教え子、友人と会って話を聞いていくうちに、父がいつも職場で家族の話をうれしそうにし、自分が父の自慢の娘であったことを知った。大切な人を失ってしまったが、それと同時に新たな出会いと人との繋がりを見つけた。
大学生になり、マンションの自治会会長という父の仕事の一部を受け継いだ。ハロウィーンパーティーや防災訓練などを行い、確実に住民同士が繋がっていくのを実感している。 しかし最近、引きこもりや、ネットカフェ難民が社会問題化し、社会に満たされない思いを持った若者の無差別殺傷事件など、気になる出来事が多い。携帯電話やインターネットという便利な道具があり、いつでもどこでも人と繋がることができるはずなのに、なぜ、「孤独」から生じる事件が多いのか。そんなおり、テレビで学校のいじめ問題を特集した番組を見た。「地域」の力が弱く、教師が孤立無援で子供たちと向き合っている。番組の最後、女性アナウンサーがコメントした。
「子供たちに人と人の繋がりの大切さを感じてもらいたい」 父の死を思いだし、父の死によって人との繋がりに気づかされた私の胸に、この言葉が響いた。 私は今、アナウンサーを目指して就職活動中だ。テレビやラジオを通して「生きるのは一人じゃない」というメッセージを多くの人に伝え、孤独を理由に起きる悲しい事件を減らしたい。父の遺した「勇気凛々」という言葉を胸に、この夢に向か って前進していきたい。産経
フジテレビ杯
ひとつでも命を救いたい 国士舘大学 体育学部3年 伊藤哲士さん(20)
昨年10月、幼なじみの親友のお父さんが亡くなった。心筋梗塞が原因ではないかという話を耳にした。倒れたのは病院ではなかったらしいので、すぐに心肺蘇生法が行われたのかどうか心配になった。行った人がいたとしたら、その処置は適切だったのか。何人でどのくらいの時間行ったのか。正確な心肺蘇生法をすぐに行える人が複数いたら、もしかしたら結果は違ったかもしれない。
私は国士舘大学のスポーツ医科学科で、救急救命士を目指して勉強している。将来は救命士の一員として働きたいと考えている。私一人でひとつ命を預かることは到底できないが、救急隊のチームでなら可能だ。救命士は現場から病院に搬送するまでの間、傷病者の救命処置、(状態の)悪化の防止、苦痛の軽減を目的としてさまざまな処置を行う。ただ、医師ではたい救命士はあくまで「つなぎ役」にすぎない。
心停止から直ちに心肺蘇生法が行われれば、90%以上の確率で命は助かるが、助かる確率はl分遅れるごとに7〜10%低下する。10分たてば生存率は0%に近い。この10分間が非常に大切で、救急隊の技術よりも時間が勝負ということがわかる。時間とともに確実に下降していく救命率は、その場にいない救急隊ではどうすることもできない。大切なのは、その場にいる人がいかに早く処置を行うか。
ただ待つのと、心肺蘇生法を施しているのとでは救命率に大きく差が出る。心肺蘇生法で保たれた可能性を救急隊が高度な技術でつなぎ医師に引き継ぐ。医師や救命士はl般人による心肺蘇生法があって、初めて力を発拝できる場合もある。私が救命士になったとき、ひとつでも多くの命を助けるために今、できるだけ多くの人に心肺蘇生法を広めたい。
ニッポン放送杯
「食」を生かし地域づくり 岩手県立大学 総合政策学部3年 小方恵実さん(21)
私は岩手生まれ岩手育ち。だから岩手のために何かしたい。そう考えるようになった契機は、小学6年で参加した河川整備のワークショップだ。川のそばに行ける階段がほしい」「花をたくさん植えたい」という子供の意見でも、3年後には放水路公園で形になったことに感動し、「地域づくり」を意識し始めた。まちづくりを工夫している県内の自治体に足を運び、自らの将来ビジョンを明確にしようとしてきたが、目にしたのは地域の著しい衰退だった。
県内の老年人口割合は全国平均を上回る一方、経済成長率や求人倍率は大きく下回り、農山村地域は担い手不足や若者の雇用などの問題が山積している。地域間題の多くは、経済成長を最優先する大人の経済観による政策の負の遺産だ。利益最優先で行動する大人に少年が抱く夢のような価値観はあっただろうか。困難でもやり切る前向きな子供の視点を持つことが「私がやること」の第l歩だ。
農林業衰退のなか、生産、流通、消費、廃棄という「食」の過程を総合的に見直す必要がある。大学で第1次産業の担い手問題を研究中だが、卒業後は食品メーカーに就職し、5年働いてこの過程を自分の目で確かめる。次に「農家レストラン」で食の根本にある農業を基盤にした地域づくりを学ぷ。そして30歳ごろ岩手に戻ってNPOを立ち上げ、子供たちと食というツールを生かした地域づくりをーと考えている。
「私がやること」は10年後の岩手で、子供の視点を地域づくりに活かす場を作り、子供と地域の距離を近づけること。岩手が好きで岩手のために行動する子供が、一人でも増えてほしいと思うのだ。損得勘定ではない視点を豊かな自然に支えられた農業大国・岩手で活かしたい。
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