松永安左エ門と松永コレクション

尾崎直人
【福岡市美術館学芸課長]
OZAKINaoto
Chief Curator,Fukuoka Art Museum


はじめに
 
松永安左工門という人物を語るうえで誰しもが想起することは、おおよそ次のふたつに要約できよう。ひとつは戦後の電力再編の問題で発揮した実業家としての不屈のリーダーシップ振りであり、いまひとつは近代を代表する茶人のひとりとも目される風流韻事の世界に生きた趣味人としての生きざまである。一方は公共性の濃厚な実業活動であり、他方は趣味性の強い個人的生活ともいえ、この両者は一見するとかなり領域を分かった異質な活動のようにも見える。しかしながら明快な行動理念と意思をもつ人格の中に、関係の希薄な活動が同居するわけもなく、実際、松永安左工門の現実行動の諸場面を素直な目で見てゆくと、既成の価値観に束縛されない型破りで意思的な行動と、それを支える独立不羈の剛毅な精神とが大きな特徴として通底していることに気付かされる。松永安左工門の達成した独自な活動は、全人格的で分かちがたいもののようである。

 この小論ではそのような観点から、明治、大正、昭和と波乱に満ちたわが国の近代を生き抜いた、一人の卓越した実業家というにとどまらない松永安左工門独自の活動と意味について瞥見してみたい。


数寄者としての耳庵・松永安左工門と松永コレクション
 
壱岐の廻船問屋に生まれた松永は、上京して慶應義塾に学び、福澤諭吉の謦咳に接することになるが、在学中に福澤の娘婿の桃介と昵懇の間柄となる。その関係は義塾を中退ののちも終生変わることなく続く。慶應義塾に入り桃介との親交を得たことは、その後の実業家としての歩みに決定的な意味をもつといえよう。幾度かの挫折を経ながらも次第に電力関係の実業家として頭角をあらわしてゆき、大正から昭和初年にかけて、関西電気や東京電燈、東邦電力、東北電気、中部電力などの有力電力会社の役員職に次々に就任するなど、電力業界指導者としてめざましい躍進ぶりを見せる。この間に大正6年(1917)には福岡市選出の衆議院議員に当選し、政治家としての経験も積んでいる。 ここで注目すべきは、電力会社の重要ポストに就いたという社会的成功譚などではなく、企業経営者として期待される通常の活動をはるかに超えた行動を見せている点であろう。支那 事変以降、戦時体制が次第に強化され自由な表現が困難になってゆく状況下で、松永は五大電力の国家統制に対する実業家の合理的な視点からの勇気ある大胆ま私案を発表するなど、 国家的見地に立ったオピニオンリーダーとしての姿勢を明確にしてゆく。そのような政冶的権力やあらゆる既成の権威をものともしない
不撓不屈の精神は、生涯を通じて明瞭化しこそすれ変わらない。


 ところでそのような実業家としての活動の傍らで、松永は東都の貴顕紳士の間で人気を博していた星岡茶寮での北大路魯山人の活動と出遇う。これはと思うことには何事にもとことん夢中にならずにおられない気質は、魯山人とのきわめて親密な交遊のなかで、次第に数奇風流を悦ぶ方向へと関心を向かわせたようである。
昭和10年(1935)、還暦の年に始まる茶の湯への本格的傾倒はその端的な帰結であるが、重要なのはその活動が決して閉鎖的趣味世界を指向しているのではない点である。もともと松永安左工門の茶の湯への本格参加を企図画策 したのが、近代数寄者の中心的存在たる鈍翁・益田孝であったことからすると当然のことかもしれない。というのも、三井財閥の実質指導者であった益田鈍翁は、末弟・紅艶の教導により茶の湯へとすすみ、のみならず周囲の有力実業家を次々と茶の湯仲間へと引き入れて、茶道具を中心とする東洋美術の収集・観賞を趣味とした潮流ともいうべき活動を惹起主導した人物である。そこでは単なる器物愛玩・嗜好飲食を超えての実業家同士の交遊が大きな意味を持つことはいうまでもない。

 松永安左エ門の場合は、これに加えて茶道そのものを探く追求する探求心が発揮される。茶の湯に関する旺盛な執筆がこの時期から始まり、そのひとつの成果として昭和14年(1939)に『茶道三年』という茶会記を上梓し、また昭和19年(1944)には茶論集『茶道春秋』を出版する。茶道雑誌『日本の茶道』への夥しい寄稿は、紹鴎・利休以来の真の茶道への希求心の強さをよく伝えている。とはいっても耳庵・松永安左工門の茶への関心は、決してお家流の「点前茶」などの教養主義を指向しそこに安住するものではなく、始めから独自性の明快なもものであった。すなわち、教養やステータスの具ではなく、生活を美的に生きるための実践的方法論と考えていたようである。益田鈍翁とともに近代数寄者の双壁とされる三渓・原富太郎は、『茶道三年』を贈呈された返礼の書簡で、その著作は「茶趣の真髄を呈する」ものと高く称揚する。

 益田鈍翁および原三渓とのきわめて親密な交遊については、字数の都合により詳しく触れられないが、もとよりそれは松永耳庵の意図により発した関係ではないうえに、その交遊もふたりの相次ぐ他界により4年間という短期間のうちに終焉を迎えている。にもかかわらず、交わりを結ぶや瞬くの間に鈍翁、三渓の後継者とも目される状況が出来し、評価が生まれるのである。松永耳庵の個性がいかに魅力に富む類稀な資質としてふたりに映じ、また松永自身もそれに応える人物であったということをそのような経緯は伝えている。

 
数寄者としての活動とともに触れておかねばならないのは、茶道具として収集し使用した美術コレクションの位置付けのことである。茶道具のコレクターとしては後発組になるものの、織田有楽斎が所有していた名碗「有楽井戸」を当時としては途方もない値段で鈍翁と競り合って入手するなど積極的な収集によって、一躍、数寄者として注目を集めるようになるが、戦前に収集したそれらのコレクションは、思うところあって戦後すぐに柳瀬山荘の土地建物ごと国に寄贈してしまう。東京国立博物館の松永コレクション300件余がそれである。

 これとは別に戦後、電気事業再編成の問題が惹起して審議会委員に就任してから再び茶道具の収集を始めたコレクションがある。
昭和36年(1961)に設立された小田原の松永記念館において公開し、松永耳庵の没後、福岡市美術館にその殆どが寄贈された松永コレクション250件余がそれである。戦前、戦後を通じて収集された数多くの数寄者の茶道具コレクションのほとんどが雲散霧消の憂き目にあったなか、松永耳庵が収集し楽しんだコレクションは、埼玉県志木の柳瀬山荘および小田原市板橋の老棒荘と松永記念館などの活動拠点の施設とともに、ほとんどそのままの内容で公的機関に管理公開が引き継がれている。これらの松永コレクションは、わが国近代の実業家が欧米とは異なる茶数寄という形式のなかで美術を収集・観賞した有りようを、きわめて端的に今に伝えるものである。

電力の鬼・松永安左工円
 
実業家としての桧永安左工門の最も活力の漲っていた活動期は今次大戦期と重なっていて、そのため、電力の国家統制により昭和17年(1942)4月に東邦電力の解散にともなって失職する。これより後、昭和24年(1949)11月21日に電気事業再編成審議会委員に就任するまでの7年間は基本的にいわゆる浪人であった。翌年12月15日にはその実行機関としての公益事業委員会委員長代理に就任する。時に桧永安左工門74歳の年で、実は松永がその本領を発揮して、歴史に名を残すような活動を展開するのは、この審議会就任後の2年余りのことである。

 戦後復興のなかでも国のエネルギー政策の根幹をなす電力再編成問題は、政財界の重要な課題であり大きな関心事だったものの、その流れはおおよそ戦時中に国営化された電力をそのまま国が運営するというものであった。企業家として市場原理や電力現場の状況に通暁している松永は、これに真っ向から反対の立場を貫き通すのである。大手新聞を代表とするメディア、政治家や国会、主婦連などの市民団体などからの批判や抵抗は頑強であったが、信念に基づいた持ち前の行動力によって、遂に
九電力会社への分割民営化を実現するのである。しかしその後の道のりも平坦ではなく、電力再編成問題で真の辛苦を味わわされるのはここからであった。疲弊老朽化した電力設備を戦後復興の需要に応える能力のものに向上転換するためには資金調達の面から電力料金の値上げは必至であったのである。市民感覚からすると国営であれば値上げせずに済むところを、民営化したうえに早速の値上げである。官民をあげての猛烈な批難が一斉に巻き起こる。松永の代名詞でもある「電力の鬼」はこうした経緯の象徴的な悪罵であった。自己の利権を追求して倦むところのない電力業界に君臨するボス、民衆を搾取し私腹を肥やす悪徳実業家という意味である。生命の危険さえおぼえる状況も存在した。

 
ところが、料金値上げを契機にして、低迷していた電力株は一斉に高騰し、経理の好転した各電力会社は高度経済成長による電力需要の激増に対応するとともに、昭和29年(1954)10月の一斉値上げの後はオイルショックまで各社ほぼ一回の値上げで乗り切ることが出来たのである。 公益事業委員会は、政府・国会の反感を買い二度目の料金改定後の昭和27年(1952)8月1日に廃止された。「電力の鬼」と呼ばれ、電力行政のうえで大きな力を発揮してきた松永の社会的地位も終止符を打たれることになり、新聞には「電力の鬼、角を落とす」と書かれた。

 松永を憎む人々によって公権力をもぎ取られ葬り去られたということであろう。はたしてそうであろうか。頚齢ともいうべき年齢にありながら、公益事業委員会の委員長代理として1年7カ月という短い在任中に電力再編成を成し遂げただけでなく、「電力の鬼」と憎まれながら2度の料金改定を敢行し、それによって危機に瀕していた九電力会社を立ち直らせ健全な経営基盤を確立することに成功した行動力実行力は尋常な人物のものでない。

 
実業界における創造的活動を最晩年に至るまで示したバイタリティと不羈独立の姿勢は、一方でまた、伝統的因習的な既存の茶に常に批判的で、紹鴎・利休の茶、すなわち茶道本来のあり方を真撃に考究し、実践的におこなっている茶人・松永耳庵の姿勢そのものである。

松永安左工門と福澤諭吉
 
松永には『人間・福揮諭吉』という長文の評伝がある。松永独特の直截で飾り気のない語り口で、師・福澤諭吉の人物思想や思い出を綴っているものであるが、そこに一貫しているのは、独立自尊の精神と近代的合理的思想を体現した人物への最大級の畏敬の念と、温かくヒューマンな人柄に寄せる愛にも似た信頼感情である。

 この著述は昭和39年(1964)に実業之日本社から出版された本で、松永90歳の年にあたる。福澤が明治34年(1901)に68歳で没した時代から60余年である。咫尺(しせき)の間に敬えを受けたという関係と資格において、現実約な福澤諭吉その人について語り得る人は、もは自分をおいて他に求め難いだろうと述べる。かといって実際には誰も確かめることのできない福澤諭吉の実像を、ことさら理想化し偉人化して回想するわけでもない。語られているのはあまりにも人間味に富んだ生活者の具体像であり、素朴で誠実な合理的思索者の姿である。言い換えれば自由思想を重んじる実際的感覚と、リアリストの行動力を兼ね備えた、革命家にして実際家といった人物像である。

 
例えば「独立自尊の基本精神」という項目では、福澤の言を引いて「借金が恐ろしい。借金が恐ろしいから借金をしないようにと手元の金を大切にする。一切 の無駄金をつかわない。一文、二文の金でもじゅうぶん生かして使うことを考える。ハ夕目にも  ずいぶんケチに見えるかも知れぬが、これが独立の大儀にも通ずる大切なことと思えば、そんな人の思惑なんか構うものじゃあない。要するに私の流儀は自分の金は自分の金として大事に使う。その代わり人の財布をのぞき込んで、とやかく余計なことはいわない。金があってもない
ような顔をするのも自由だし、金がなくても有るような顔をするのも自由である」と紹介し、生活の資を人に求めずあくまでも自労自活、自ら立とうとする覚悟は取りも直さず独立の基本精神であって、これこそ先生の生涯を一貫した居家処世(権力から遠ざかって暮らしを立てること)の主義である、と看被する。


 また「科学知識の普及と独立の精神」という項では、そもそも福澤は百年前のわが国の近代化のために西洋から学び伝えて、何を広めようとつとめられたのかと問い、要約するにそれは科学の合理的知識と人民独立の精神である、福澤先生も自伝のなかではっきりこう言っておられるとして、「東洋の儒教主義と西洋の文明主義とを比較してみると、それぞれに長短あるをまぬがれないが、彼にあって我に欠けたるは何かといえば有形にぉいて数理学、無形において独立心、この2点である。これを私は文明開国の日本に取り入れたいものと考えた」と引用する。

 
松永は以上のように福澤の思想と活動を解釈要約しながらも、福澤その人の人間臭さ、誠実さ、自由闊達さに心底感服し惹かれていたようである。「福澤諭吉とはそもそも如何なる人であったか。一言もってこれをおおえば、・・・・ホール・ネイチュア(WholeNature)の人・・・複雑多岐をきわめた日本の近代化変革のなかに大きなスケールいっぱいに闊達自在に生き抜いた自然人だった。その唯一人といわなければならない。あるいは日本の生んだ最初で、最大の自由人であったかもしれない。」

 日本の生んだ最初で、最大の自由人、という評価は最も簡潔的確に福澤諭吉その人を言い表した言葉といえよう。と同時に、松永自身にとってもきわめて大きな意味をもつ言葉のように思える。既述してきたような松永の独立心に富んだ生涯、生きざまは、いみじくも松永が福澤について「大きなスケールいっぱいに闊達自在に生き抜いた自然人」と要約総括した生き方と、まるで相似形である。恐らくは、ホール・ネイチュアの人とは、また松永自身の希求してやまない生のあり方でもあったのだろう。 自ら生き残り最後の福澤門下生と述べる松永安左工門の生涯と活動は、文字通り三田学の真撃な実践以外の何ものでもないように思えるのは筆者だけであろうか。

A-4版430ページ。|¥2500